時々、自分には人の血が流れていないのではないかと、思うときがある。
 時々、彼には人の血が流れていないのではないかと、思うときがある。


―― 創作悲劇と温かな涙――


「一体、どこに泣く必要性があるのか、僕にはわからないな」
「……貴方って本当、血も涙もないのね」
「生体の構造上、血も涙も無いということは考えられないな」
「サイテー」
「たかが、映画だ。誰が死のうとそんなのただの創作にしか過ぎないさ」
「……もう二度と、貴方と一緒に映画は見ない」
「それは残念だな」
「……どーだか」
「そもそも、人が死んで悲しいという気持ちがわからないな」
「……」
「人はいつか死ぬものだろう。それが今だったというだけで、一体どこに悲しむ必要性がある?」
「遣り残したことがあるならば、それは悲しむべきことだわ。遺された者は哀しいわ。……貴方は、私がいなくなっても泣かないの?」
「それとこれとは別問題だ。論点のすり替えだ、ファラシーだよ。だが、敢えて答えるのだとするならば、おそらく泣かないだろうな」
「それは」
「そもそも、君は泣いて欲しいのかい?」
「……それも嫌だけれども」
「だろ? 君は、そういう安っぽい女じゃない」
「……。なんか騙されている気がするなぁ」
「そんなことはない」
「でも、」
「それに、結局それも創作にしか過ぎないんだよ」
「それ?」
「実際に人が死ぬということも」
「……創作とは不謹慎ね」
「そうかい? だが、結局人の人生なんてただのシナリオさ」
「……」
「違うと?」
「……いいえ、ちがわないわ」
「だろ? 誰かが手を入れて、都合のいいように書き換えた、シナリオだよ」
「……。」
「人は自分の意志で生きているように見えて、結局誰かの手のひらの上にしかいないんだよ」
「……ええ、そうね。それは身をもって実感できるわ」
「それは嫌味かい? ……まぁそういうわけで、だ。大量殺人という人の人生に手を加えた小説家の人生に手を加えてくれないかい?」
「それはつまり」
「ああ、仕事だよ。罪を狩る、というね」
「わかりました、長」


 時々、彼には人間の血が流れすぎているのではないかと思うときがある。全てを虚構だと仮定して、現実から目をそらそうとするところなど、特に。
 そして、現実を受け入れて涙を流して満足する自分の方が、人間の血が流れていないのではないかと、思うときがある。