「ふられました」
 その日、いつもより遅くに現れた隅木亜由美は、腫れたまぶたでそれでも決然と前を見ながら、高らかに告げた。
「は?」
 むしろ、それを聞かされた硯茗が固まった。

 何が一体問題だったのだろう。
 悲しいのは一晩たった今でもそれがよくわからないことだ。
 つまり、そういうところがだめだった?
 最近、少し連絡が途絶えがちで心配していた。心配していたのは、相手の体調とかで。つくづく自分は馬鹿だ。
 会う約束を取り付けて、相手はいつもと同じように現れた。だから、安心したのだ。
 いつもと同じようにご飯を食べて、いつものようにマンションに送ってもらって。
 しばらく、別れ話をされているとも気がつかなかった。
「好きなんだけど、こうやって無理矢理時間を作って一緒にいるのつらいんだ」
 その後の自分も結構馬鹿だった。泣いて喚くのがキャラに合わないとしても、もう少しやりようがあっただろうに。
「もうちょっとびしっと別れの言葉でもいいなさいよ! しっかりしなさい、これからそんなで大丈夫なの?」
 馬鹿過ぎるだろ。それか、男前過ぎる。ばっかみたい。
「嫌いになったわけじゃないから、これ以上強い言葉はいえないよ」
 まったく、どうしようもないぐらいお人好しだ。優しすぎるのは、逆に残酷だ。でも、こんなときにでも、その優しさが好きなのだと思う自分が、一番馬鹿だ。馬鹿すぎる。
 そのまま笑って帰って、次の日に必要な書類をそろえて、実感が湧いたのは今日職場で困ったような顔をする硯茗を見た瞬間だった。
 そんな困ったような顔をされるような、そんなことなのだと、初めて実感が湧いた。
「仕事は、ちゃんとやりますから」
 なんとか笑ってみせると、硯茗は
「今日、飲み行こうか。大丈夫、私は飲まないから」
 下戸な彼女の、その身の程をわきまえた台詞に少し笑って、緩んだ涙腺をまぶたを、ぎゅっと閉じた。

 ボス弁たる上泉先生の計らいで、いつもより少しだけ早くあがれた木曜日。
 いつもは彼女に連れて行かれる居酒屋に、今日は亜由美が連れて行く。ひとしきり、昨日あったことをしゃべると、急に涙が込み上げてきた。
 慌てて息を止めて、それをひっこめようと努力する。
 昨日は帰ってからお風呂で少しだけ泣いた。その後は、目が冴えて眠れなかった。それだけだった。
 その分、今、つらい。
「亜由美ちゃん?」
 遠慮がちにかけられる声に、密かに尊敬している彼女に、隅木亜由美は泣き笑いみたいな顔をして告げた。
「私、もう子どもじゃありませんから」
「うん」
「一人でも、全然平気ですから」
「うん」
 首元に手をやる。いつもそこにつけていた、もらったネックレス。でも、それは今日はそこにはなく、手が首元をただ移動する。外してきたのは自分、だ。
 頼らない。一人でも大丈夫。あの人は、バカみたいに優しい人だから、余計な心配をかけないように、そうやって笑ってあげなければならない。それは自分のプライドのためにも。
 一人でも、大丈夫。
 本当は大丈夫じゃなくても。
「大丈夫、なんです」
「知ってるよ」
 優しく優しく、硯茗がささやくように告げる。
 涙がこみあがってきて、唇を噛む。
 いつもと、これじゃあ逆じゃないか。
「ひとりでも、がんばれますから。また、明日からちゃんとがんばりますから」
「うん、わたしは亜由美ちゃんがいてくれないと、仕事困っちゃうから」
 だめだ、
 決壊寸前になったまぶたをおしぼりで慌てて隠す。
「もう、本当にだめですね、硯先生は」
 なんとか言葉にする。ごめんねー、と茗の声がなんだか遠くに聞こえる。
「わたしがいないと、ほんとう、だめなんだから」
「うん、だめなんだ。だから、明日からまたよろしくね。でも、今日はいいよ?」
 ゆっくりと茗が微笑む。おしぼりから目線だけあげてそれを見ると、亜由美は今度は黙って流れる涙をそのままにした。

 また行こうねって約束した場所も、こっそり立てていた夏の予定も、全部泡となって消えて。もう一緒にどこかに行くことも何かをみることも手をつなぐこともなくて、階段の踊り場から帰って行くあの人を見送るのが好きだった。別れ際片手をあげて笑う、あの笑顔が自分のためだけに向けられることももうなくて。
 次にあった時は、一体、なんて名前を呼べばいいんだろう?
 ごめんね、と最後に謝られた。謝らなければならないのは自分の方だ。そんなになるまで何も気がつけなかった。少しでも不満に思った段階で言ってくれればよかったのに、なんていっても、気がつかなかった自分が悪かったことには変わりはない。
 ごめんなさい、でも、叶うなら、やり直すチャンスが欲しかった。
 あんな風に格好つけて別れるんじゃなかった。もっと言いたいこともいっぱいあったのに。本当にだめなの? ってすがったら、何か変わったのかもしれない。そう思ってしまう自分が馬鹿すぎる。残酷なぐらい優しいけど、その分意思も固いから、きっとあの人がだめだっていったらもうだめに決まっているのに。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。
 与えてくれたものの半分も、きっと私は返せていない。大事なことをまだ、伝えられていない。
 ごめんなさい。
 でも、大丈夫。わたしは大丈夫。貴方がいなくても、どうにかこうにかがんばっていくから。強がりでもなんでも、そうやって次に会ったときには笑ってみせる。
 だから、だからどうか

「ひとつだけ、思うんです」
「うん?」
 黙って亜由美が泣き止むのを待っていた茗は、またゆっくりと微笑んで首を傾げた。
「元気でいて欲しいって。私以外のもっといい人見つけて、それはそれで悲しいんだけど、でも、元気でいて欲しいって」
「うん」
「今一番悲しいのは、それを昨日伝えないで別れてしまったことで」
 だからもう、この想いが届くこともないのかもしれないけれども、
「これから先も、元気で、幸せになって、次に会うときまで私もがんばるから、あの人も笑っていて欲しい、です」
「うん」
 膝に顔を埋めた亜由美に、茗は微笑んだまま右手を伸ばして頭を撫でた。
「それは分かるよ。きっと、その人もそうやって思ってるから、だから、多分伝わってるから、大丈夫だよ」
 嗚咽を噛み殺しながら、亜由美は一つ頷いた。
 本当は、今ここで慰めてくれている人があの人で、今こうやって撫でてくれる手はあの人のものがよかった。本当はそれじゃなきゃだめだった。どんなに逆説的で馬鹿げている考えでも。
 でも私は、大丈夫。
 だからどうか、次に会うときにはお互いに「今幸せだよ」って言えますように。
 あなたがいない世界ででも。


Without you