「こんにちは」
 彼が部屋に入ったとき、彼女は窓際にたっていた。
 部屋の中には彼女しか居ない。
「あら、いらっしゃい」
 そういって口にくわえていた煙草と手に持ったライターと、それから彼の顔を順番に見てから、結局、その火をつけていない煙草をしまおうとする。
「いいですよ、吸っても」
「そう? 沙耶には内緒ね」
 そういって窓を開けて、煙草に火をつける。
 彼女から吐き出される煙を、見つめる。
「あの子、ここで煙草吸うと怒るのよね。室内禁煙って。クライアントには許可するくせに」
「……それはきっと、沙耶さんなりの愛情かと。円さんに煙草を止めて欲しいんですよ」
 そういうと、彼女は眉をひそめた。
「それ、この間龍一君も言ってた。親友ね、さすが」
 どこまで本気なのかわからない口調に、彼は肩をすくめた。
「今日は、どうしたの?」
「この間の報告書を受け取りに」
「ああ、そこにあるから持っていって」
 言われて机の上に視線を移す。
 確かに、この間の合同調査の報告書がおいてあった。
「確かに」
 それを受け取りながら、代わりに鞄の中から似たような書類を置いた。
「巽の方の報告書、おいときますね」
「ありがとう。わざわざごめんね」
「いえ、帰り道ですから」
 そういいながら、窓際に立つ彼女を見る。
 逆光で表情が良く見えない。
「そういえば……」
 彼女が吐き出す煙を見ながら問い掛ける。
「なんで、円さんは煙草を吸うようになったのですか?」
 言われて彼女は手のひらの煙草を見つめ、それから彼を見て、
「煙草、吸うつもりなんてまったく無かったのよ。母は、肺癌で死んだから」
 そう答えた。
 へヴィスモーカーの彼女が吸うつもりはなかったといったことに、少しばかり彼は驚く。
「……そうでしたね」
 小さかったからよく覚えていないけれども、お葬式に出た記憶がある。
「私を置いていった母を恨んだ。だから、煙草吸うつもりなんてまったく無かった」
「ならば、何故?」
「高校のときに付き合ってた人がね、これがもう女癖が悪い最悪の奴だった。つーか、今思うとなんであんなのと付き合ってたのかしらね? こう、何? 年上の魅力? ガキだったわねぇ」
 ねぇ? と彼女は首をかしげてくる。
 今現在、年上である彼女に思いを寄せている彼には的確な答えはかえせなかった。
「……まぁいいわ。でも、その人、煙草が大嫌いだったのよ。だから、一度吸ってやったの。目の前で」
「……それで?」
「ふられたわ。それとも、ふったのかしら? 本当は少し期待していたのよ。あの人にとって私は特別で、だから吸っても私なら許してくれるんじゃないか、なんて甘い期待」
 逆光で、彼女がどんな顔をしているのかわからない。
 それがよかったと思う。
 昔の恋愛を彼女が語る顔なんて、見たくない。
「……今、高校の時って言ってませんでしたっけ?」
 話を逸らしたくて、そう尋ねてみる。
「ええ。高2のとき」
「少しは悪びれてください」
「はいはい。で、今も辞められない。……わかっちゃったのよねぇ。母が何で煙草を吸ってたのか。……母は、逃げたかったのよ。宗主の妻という立場から。あの格式の家から」
「……逃げたいんですか?」
 逃げたくなる気持ちはわかる。
 でも、彼女がそう言うとは思っても見なかった。
 なんだかんだいって、自分の仕事には誇りをもっている人だから。
「ええ。……パティシエになりたかったの」
「……料理、上手いですもんね」
「ありがとう。でもね、無理だった。だって、私は宗主の娘で、いずれあとを継ぐことになっていたから。……だから、こうしていることにはその意味もあるのかしらね。家のために夢を諦めたなんて悔しいから、煙草を吸っているからってことにしたのかも。煙草、味覚を麻痺させるじゃない?」
「じゃない? とか聞かれても困りますが」
「ああ、そうね。……あんたはやめておきなさいね」
 彼女が微笑んだ気がした。
「はい。でも、円さんもそろそろやめたらどうですか?」
「……。」
「死なれたら、困りますし悲しいですから」
「……ありがとう」
 彼女は煙草を灰皿に押し付けた。
「私ももう帰るから、途中まで一緒に帰りましょう。ちょっと待ってて」
 そういって、窓を閉める彼女は、先ほどまでのどこか湿った空気など微塵も感じさせない様子で、彼は少しほっとした。
 弱音をはかない人だから、ああやって話してくれることに安堵はするけれども、やっぱりしめっぽいのは嫌いだし、彼女には似合わないから。
「はい、待ってます」
 そういって、彼は笑った。