「スィ」
 声をかけられる。
 顔を上げる前に、誰に声をかけられたのかわかってしまった。
「何をしにきたの、ホーセイ」
 顔をあげると、やっぱりホーセイがそこにいた。
「ホーセイ、私の記憶が確かならばここは私の大学の7310教室で、これから刑法の授業で、貴方は学生じゃないはずだけど」
「ああ、あってるよ。スィ」
 彼はそう言いながら私の隣に腰をおろした。
「大教室ならばれないよ」
「そういうことを聞いているんじゃない」
 私はあきれてため息をつく。
「仕事は?」
「仕事中」
「……何の?」
 先生が教室に入ってきた。
 ホーセイは私の耳元に唇を寄せると囁いた。
「あのセンセーの浮気調査」
 私は、失礼ながらも先生をじっとみる。
「本当?」
「本当」
 前から回ってきたレジュメをきっちり自分の分もとって後ろに回しながらホーセイは頷いた。
「あんなバーコードはげの中年オヤジでも、浮気調査の依頼はあったりするんだよ」
 それはあまりないい方ではないかと思ったが、あいにく私にはフォローできる言葉がなかった。

 *

 やれやれ、上手くいったと俺は内心で安堵の息を吐いた。
 勿論、あんなバーコードはげの中年オヤジの浮気調査の依頼なんてきていないし、そもそも、そんな依頼がきても引き受けたりしない。
 自分の母校であり、恋人で秘書の彼女の学校に仕事で乗り込むなんてことはしない。
 懐かしいレジュメなんてものを眺めながら、隣のスィを見る。
 ここのところ、仕事の連絡以外のメールのやり取りやスィがバイトを終わるのを迎えに行くぐらいしかしていない。
 迎えに行っても、スィの家は近いんだし、全然話す機会なんてない。
 本当は今日入っていた素行調査の依頼は先ほど取り下げられた。
 きっちり、キャンセル料を頂いて、他の依頼を待とうか考えて、結局、俺は今こうしてここにいる。
 仕事だと口実をつけて、今日は一日中ずっとこうしてスィといればいい。
 適当な、バレても構わないとついた嘘だから、すぐにばれるだろう。スィは頭がいいから。
 そのとき、どうやって弁解しようかと、そんなことすら楽しく思える。
「ホーセイ?」
 小声でそういって俺のわき腹をつっついてくるスィに、微笑み返した。
 スィの耳元で囁くふりをして、そっと頬に口付けた。
 大きく目を見開いて、顔を赤くして、何かを言おうとしながらも、それでも授業中であることを気にして、ただ口をぱくぱく動かしているスィから視線をそらして、少し真面目に板書するふりなんてしてみる。
 口元は自然に笑みの形になるけれども。

 今日は一日、彼女の側から離れるつもりは無い。