「このような理由で、単為生殖の方が生物学的には優れているわけですね。では、何故、雌雄に別れるのか? その理由のひとつに、赤の女王説というのがあります」
 初老の教授の話を、専攻科目ではなくてつまらないから、という理由で話半分に聞いていた私は、その異質な言葉に顔をあげた。
 赤の女王? 生物学で?
「鏡の国のアリスって知ってる? 不思議の国のアリスの続編みたいなやつ。あれにでてくる、赤の女王が言うんだよ。『一箇所にとどまるためには走り続けなければならない』そうじゃないと、周りの進化においていかれるから。うまいこといった人もいるもんだよね。赤の女王説っていうのはこの言葉から来ているんだ。つまり、単為生殖ではなく、両性生殖を行うことで遺伝子の交換を行い、周りの進化に置いていかれない様に“走り続ける”個体を作る。これが赤の女王説なんだ。関係ないけど、女王といえば」
 そこで、雑談に走り出した教授の話をシャットアウトすると、私はノートの隅に書き込んだ。
「一箇所にとどまるためには、走り続けなければならない」
 なんて、いい言葉なんだろう。

 結局、その生物学の講義は途中から教授の雑談で終わった。卒業要件に関係なければ、こんな教養科目なんてとらないで、専門科目だけとっていたかった。だって、その為に大学に来ているのだから。
 チャイムと同時に荷物をまとめ始めると、さっさと教室を出て行く。かちゃかちゃ、とペンケースが音を立てた。

「やぁ、ミス・ローヤー」
 民事訴訟法の教室をあけると、入り口のすぐ近くで話し込んでいた彼がにこやかに手をあげるから、一瞬踵を返したくなった。
 勿論、そんな風に逃げたりしないけど。
「設楽桜子です」
 きっと睨み付ける。
「それとも、高校時代からの知り合いの名前を忘れるほど耄碌しましたか?」
 そう言うと、彼、志田葉平はへらりと笑った。
「いやいや、そんな友達の名前を忘れたりはしないよ」
 私と貴方が一体いつ友達になったのですか? と聞きたい気持ちをぐっとこらえる。
「ただ、今、ミス・ローヤーの話をしていたからさ、桜子さん」
 彼は、私の名前を呼ぶときに、何故か“桜”と“子”の間で一拍の間をとる。聞きようによっては酷く間抜けなその呼び方を、それでも私は実は気に入っている。
「なぁ?」
 彼は、話し込んでいた友人たちに顔を向けた。彼らは曖昧な笑みを浮かべる。
「困っているじゃないですか。どうせ、悪口でしょう?」
 ため息混じりに吐き出す。別にそんなに目立つことをした覚えはないのだが、ただでさえ女子の人数が少ないせいか、気づいたら私は割と有名人になっていた。ミス・ローヤーなんていうあだ名と共に。
 ミス・ローヤー。まぁ、検事を目指している私としては有難く、受け取っておきたい称号だ。その意味が、法律好きの頭でっかち、結婚相手は六法全書、でも。
「悪口じゃないよ。ただ、桜子さんがゼミでまた、発表者をこてんぱんに言いくるめたってうわさ」
 なぁ? と彼は仲間内に確認する。彼らは曖昧な笑みを浮かべたまま、曖昧に頷いた。
 そんなに怖がらなくても、例え悪口を言われていたところで、別に私は怒ったりしないのに。まぁ、度が過ぎたら名誉毀損なり、侮辱罪なりで、責任を取ってもらうけど。
 しかし、こてんぱんに言いくるめたとは人聞きの悪い。今日、こうやって話題に出ているということは、今週のゼミの話だろう。だとしたら、それは
「言いくるめたなんて、綺麗なものじゃない。少年院の説明で、間違っている箇所があったから指摘しただけ。十六歳未満であるべきところが、十六歳以下になっていたの」
「え、それだけ?」
 詳しくは聞いていなかったのか、志田君が怪訝そうな顔をする。
 そのミスも個人的には有り得ないと思うが、有り得ないのはここからだ。私は小さく首を横に振って、否定の意を表すと、続けた。
「そしたら、発表者の彼に言われたわ。以下と未満って何が違うんですか? ってね」
 ああ、思い出しただけで眩暈がする。以下と未満の違いなんて法学部生以前の、小学生だか中学生だかの次元の話だろう。
 これには、志田君をはじめ、彼の友達も小さくうわぁっと呟いた。
「それは、ごめん、桜子さんは悪くないや。こてんぱんに言いくるめたっていう噂は、ここらでうまいこと訂正しておくよ」
 志田君が頬を軽く引きつらせて言う。
「お願いしておくわ」
 今の台詞は、裏を返せばやっぱり悪口だったんじゃないか、と思ったが面倒なので言及しない。
「ただ、さ」
 志田君は急に真面目な顔になって続けた。
「高校のときからそうだったけど、桜子さんが言うことは正論で、全然間違ってないことが多いけど、でも、言い方きついから気をつけたほうがいいよ? 損、してると思う」
 急に真面目に言われて一瞬面食らう。次にその言葉を理解する。と、急にかぁっと頭に血が上るのがわかった。
「そんなこと、貴方には関係ないでしょう」
 ぴしゃり、と言い切る。
 志田君の友達は一瞬びくり、と肩を震わせ、こちらをみてきたが、彼は軽く肩をすくめるだけに留まった。
「そういうところ。勿体無いよ。笑ってたら可愛いからもてるだろうに」
 頭ががんがんする。私は、その言葉には返事をしないで、いつもの定位置、前から三列目の中央の席に座った。
 鞄から教科書と六法を取り出して、睨む。
 損している? 笑っていたら可愛いからもてる? 人の気も知らないで、よくもまぁぬけぬけとそんなことを!
 イライラする。小さく深呼吸して落ち着かせる。
 結婚相手が、六法全書。結構じゃないか。絶対に浮気はしない、堅実な結婚相手といえよう。
 恋愛なんてばかばかしい。時間の無駄だ。攻撃は最大の防御なり。
 背後から、志田君の笑い声がする。
 そう、彼に高校のときに片思いをしていたなんて、そんなのきっと時間の無駄だったのだ。
 一箇所にとどまるためには走り続けなければならない。
 恋愛なんてばかばかしい。あのふわふわとした、浮ついた感覚は大嫌いだ。あんなもの、走るための重荷にしかならない。
 ふん、っと一人で笑って見せると、教科書を開いた。
 立ち止まっている暇など、どこにもない。私はそれを、知っている。