次の日、お店に行くと、 「ああ、理恵ちゃん。昨日はごめんねー」 少し困ったように笑いながら、マスターが言った。そのいつもどおりの姿に安心した。 したけれども。 「あら、友哉、もしかして、噂のバイトちゃん?」 カウンターにもたれかかるようにして、マスターと話している、その女性は誰ですかね? 手足の長い、すらりとした美女。 そんな今まで見たことのない女性が、親しげにマスターの下の名前を呼んでいる。 想定外の光景に、入り口で思わず足をとめた。 「そうだよ」 マスターは女の人に頷きかけると、私を見て首を傾げた。 「理恵ちゃん? そんなとこで止まってどうしたの?」 「あ、いえ。着替えて、来ます」 首を横に振ると、キッチンの中に入る。更衣室のある裏口には、キッチンを通り抜けて行くしかない。 「ほら、理恵ちゃん来たんだし、帰れよ。っていうか、なんか頼めよお前は」 「あらやだ、あたしと友哉の仲じゃない?」 背後からそんな会話が聞こえる。 一体なんだっていうの? 更衣室にはいると、くらくらする頭を片手で押さえて息を吐く。 昨日の英輔さんの言葉で受けた脳震盪が、まだおさまっていないのに。あの黒男のことも気になるのに。それに加えて、あの美女は一体なんだっていうの? 「……お似合いだったな」 自分の口から思わず溢れ出た言葉に、ぞっとした。 なんだか、どきどきする。顔が赤い気がする。 でも本当、お似合いだと思った。マスターと同じぐらいの年齢の、大人の女性。すらっとした体型は、マスターと並ぶと丁度いいバランスだった。 お似合いの、美男美女のカップルだ。そう思えた。 マスターに恋人なんていない。ずっとそう思っていたけれども、考えてみたら訊いてみたことなかった。 あの人が、恋人なんだろうか。 マスターのこと下の名前で呼んでいたし、私の話もしていたみたいだし。 心臓がどきどきしているのに、なんだかもの凄く冷たい。気持ちが悪い。 マスターに恋人がいる可能性なんて考えたことなかった。英輔さんの言うとおりだ。私は、マスターは私のことを憎からず思っていると信じていたし、その自信にあぐらをかいていた。 だから今、こんな裏切られた気持ちなんだ。勝手に。 涙がこぼれかけて、慌てて深呼吸した。 ペンダントを握る。 「ピラマ、パペポ、マタカフシャー」 小さな声で、それでもはっきり唱えると、少し心が落ち着いた。 セーラー服を脱ぎ、店の制服に手をかける。 今はともかく、気をとりなおさなくっちゃ。余計なこと考えないで。お仕事に来ているんだから。 こんな時でも、体に染み付いた習性で、制服への着替えはスムーズに行われる。最初は、これを着るのも手間取っていたのに。 制服に着替えると、少しだけ気持ちが切り替わった。まだ、完全には払拭されていないけれども。 姿見に自分をうつす。 可愛い海老茶式部の制服に身を包んだ私がそこにはいた。 「……がんばれ、私」 呟いて、営業スマイルを浮かべてみせる。 うん、大丈夫。もう一度ペンダントに触れる。 気合いを入れると、更衣室をでて、店に戻った。そこには、あの女の人の姿はなかった。 「理恵ちゃん」 マスターは私を見ると、いつもの笑顔を浮かべる。 「ほんっと、昨日はごめんね? びっくりしたよね」 軽く両手をあわせて言われた言葉に、 「いえ」 首を軽く横に振る。 びっくりしたのは事実だけれども。しかし、あの男はなんだったのか、尋ねてもいいものだろうか。ついでに、さっきの女の人のことも。 そう悩んでいるとマスターの方から、教えてくれた。 「ちょっとね、土地関係で揉めてるんだよねー」 「揉めてる?」 「明渡し的な」 「え、大丈夫なんですか」 「うん、状況はこっちに有利なんだけど、あいつ諦めが悪くって。さっき来てた女は大学の同期で、色々相談にのってもらってるんだけどさ。本当、ごめんねー」 そうしてマスターは柔らかく微笑んだ。 「この店を無くしたりしないからさ、嫌になるまでは働いていてよ」 その言葉に、じんわり心が温かくなる。 ああ、私ここに居てもいいんだ。マスターに必要とされているんだ。 ついでに、あの女はマスターのカノジョとかじゃないんだ。よかった、本当によかった。 「はい」 色々な感情がないまぜになりながらも、元気よく頷いた。今日もがんばろう。 なんて決意したのも束の間、 「遅くなりましたー」 まったく悪気なさそうに言いながら、はいってきたのは英輔さんだった。右手にコンビニの袋を握っている。あの中、きっとスィーツまみれなんだろうな。 それにしても、あれ? 英輔さん、今日はお休みじゃなかったっけ? 「あー、悪い、英輔」 「全然。暇だし」 言いながら英輔さんは、エプロンをつける。英輔さんには特に決まった制服はなく、エプロンだけが支給されている。そのエプロンも、大体レジの脇に放置されている。 って、あれ、英輔さんが働くの? 今日はマスターと二人だと思って、わくわくしていたところ、あったのに。 思って見ていると、 「ごめん、理恵ちゃん。そういうわけで、俺今日ちょっと出てくるから、英輔と二人でお願いできる?」 マスターが申し訳なさそうな顔をしてそう言った。 ああ、そういうことか。揉めているって、言っているもんな。 「はい、わかりました」 いつも頼りないマスターが、珍しくがんばっているのだから、私もできるだけサポートしなくっちゃ。安心させるように微笑むと、頷く。 「いつもマスターがいても一人で働いているようなものですから、英輔さんがいるだけマシですね。任せてください」 ついでに、いつもみたいに、ちょっと悪戯っぽく言葉を続けた。ちょっとした意地悪。 「はは、言うと思った」 マスターが苦笑いする。 いつものやりとりに、安心する。大丈夫、いつもと何にも変わらない。 軽く笑いながらマスターを送り出そうとしたら、 「友哉、まだぁ?」 ドアが開いて、さっきの女性が顔をだした。 ……待って、あの女と一緒なの? 「三恵子、ちょっと待って」 「はやくしてよね」 軽く唇を尖らせてそういうと、ドアが再び閉まる。 マスター、あの人のこと、下の名前で呼び捨てなんだ? 下の名前で呼び捨てし合う仲なんだ? 「じゃあ、二人とも悪い。ごめん。なんかあったら連絡して」 マスターは早口でそう言うと、黒いサロンをレジ脇の棚に放って、店を出て行った。 「いってらー」 英輔さんが、つまらなさそうに言いながら、軽く右手を振る。 そして、私の方を見ると、 「……ひっどい顔してますが、お仕事ですけど、平気ですかー?」 揶揄するような口調で尋ねてくる。 「大丈夫です!」 きっと睨みつけながら言葉を返すと、 「私、今日フロアやるんで。英輔さん、キッチンやってくださいね」 フロアとキッチンを隔てる入り口でぼーっと立っている英輔さんを押しのけてフロアにでる。 一人でキッチンにいるときっと余計なことを考えてしまう。だったらフロアでお客様と話をしていた方がよっぽどいい。 「えー、俺まだ、キッチンの仕事全部覚えてないんだけど」 「がんばってください。いつかは覚えなくっちゃいけないんですから。何事も練習練習!」 泣き言いう英輔さんを、わからなかったら訊いてください、と続けてキッチンに押し込んだ。 胸元に手を伸ばすと、 「ピラマ、パペポ、マタカフシャー」 小さな声で呟く。 すこぅしだけ、気持ちが落ち着く。 ドアが開く音。 「いらっしゃいませ」 間髪入れず、とびっきりの笑顔を作ると、お客様をお迎えした。 |