屋根の上を飛ぶようにして走り、私達のいる屋上まで、あっという間にあの狼がやってきた。黒い毛並みが多少は乱れているが、怪我を負ったようすはない。 「探したぞ、半血」 黒男が言う。 「探すなよ、全血。諦めろよ。ちゃんと許可とってるんだから文句があるなら役所に言えよ」 「言ったさ。言ってままならないから、こうしているんじゃないか」 「ままならなかったら諦めろよ!」 うんざりしたようにマスターが怒鳴る。 っていうか、この人と戦っていたはずの、 「……英輔さんは?」 一体、どうしたというの。 マスターの背中に庇われるようにしながらも、恐る恐る尋ねた私に、黒男は鼻で笑ってから、 「さぁな? 今頃狼の餌だろうな」 淡々と告げる。 「やっ」 悲鳴をあげかけた私を、 「大丈夫」 マスターが、少しだけ振り返って笑いかけることで、制した。 すぐに黒男に向き直りながらも、 「あいつはマジで死なないらしいから。例え心臓をくりぬかれようとも、頭を撃ち抜かれようとも、腕がもがれようとも、時間があれば再生するから平気って言ってたしな」 ……再生するからいいってもんじゃ、ない気もするんだけれども。 そんな私の心を読んだのか、マスターが嘲るように小さく笑う。 「大体、お前等が英輔をそんな目に遭わせられるわけがないだろ。お前一人が抜け出してここに来るのに、こんなに時間がかかっていたのに。澄ました顔をしているが、だいぶやられたんじゃないのか?」 挑発するようなマスターの言い方に、不満そうに狼が牙を剥く。 「黙れ、半血」 「法律も守れない愚か者こそ黙れ」 「今日という今日は決着をつけてやる! あの店を閉めろ! 私が店をやるんだ!」 マスターがいつになく真剣な顔で狼を睨むと、 「あの店は絶対に渡さねえよ」 低い声で吐きすてる。 「理恵ちゃん、下がってて」 私にそう一声かけてから、吠える。そうすると、マスターの姿は、狼になった。 そのまま二頭の狼はぶつかり合う。 吠えて、噛み付いて。避けて。飛びかかって。 私は邪魔にならないように、給水塔の影に隠れるようにしながら、それを見守ることしかできない。 マスターの方が、小さい。体格差があるから、追いつめられている。 それに、能力だって半分だって言っていたじゃないか。 ネックレスをぎゅっと握りしめる。 黒男の牙が、マスターの右前脚を軽く裂く。ぱっと血が飛んで、小さな悲鳴があがる。 どうしようどうしようどうしよう。 このままじゃ、マスターが死んでしまう。 なにか私に出来ることはないだろうか。このままここで、祈っていたところで、なにもかわらない。 必死に頭を働かせる。 ここで私が飛び出していったところで、なにもできないし、マスターの邪魔になるだけだ。 だけどなにか、なにか、出来ることはないだろうか。 狼人間の弱点とか、何かなかっただろうか。映画とかでなんかこう、なかっただろうか。ええっと、ニンニクと十字架? 違う違うそれは吸血鬼だ。 あ、銀の銃弾が効くって見たな! ってそんなもの持ってないし。 ああ、っていうかさっき、満月を見て変身するのは創作だって言われたばっかりじゃないか。映画をヒントにするんじゃきっと駄目だ。 ええっと、じゃああとは、狼の弱点? 狼の弱点って何……。 「……火?」 動物って火が怖いって言わないっけ? 言うよね? 試してみる価値はあるかもしれない。 だけど火をつけられるようなものなんて、何も持ってない。 エプロンのポケットを叩いたところで、出て来るのはオーダーを取るメモ帳と、ボールペンと、 「あれ?」 それとは違う別の感触。 引っぱりだすと、それはライターだった。 そういえば、さっきお客様の忘れ物をポケットに入れたままだった。 これならもしかしたら。 エプロンを外すと、それを左手に、ライターを右手に握りしめる。 給水塔の影に隠れたまま、少し二人の方に近づく。 給水塔に隠れるようにしながら、ライターに火をつける。手が震えてなかなか上手く行かない。ようやく火がつくと、それをエプロンの裾に近づける。 ぼっとエプロンに火がついた。しばるリボンの部分を握って、やけどしないように気をつけながら、狼の様子をうかがう。 だけどどうしよう。二頭の狼は近づいたままで離れる気配がない。このままじゃ、マスターまで巻き添えにしてしまう。 もたもたしている間にもエプロンは燃えてしまうし、それに、 「ぐっ」 どさっと黒男にはねとばされて、マスターが地面に体を打ち付ける。 「マスター!」 悲鳴があがる。血が広がっている。 どうしよう。 「ん?」 黒男が視線を宙に向けた。 「焦げ臭いな」 呟く。 ああそうか、狼も鼻がいいのか。 こっちを見る。目が合う。 「……ああ、小娘」 狼が、笑う。にたっと。鋭い歯を見せて。 「っ、理恵ちゃんっ!」 マスターが声をあげる。 よろよろと体を起こす。 「逃げろっ」 黒男がこちらにゆっくりと近づいてくる。じらすように。 マスターもこちらに来ようとしているけれども、ふらふらしていて進めそうもない。 駄目だ。このまま続けても、マスターが負けるに決まっている。 だったら。 「あたってくだけろっ!」 叫ぶと、ポケットに入っていたメモ帳とボールペンを黒男に向かって投げる。勿論、すんなり交わされる。 「理恵ちゃんっ!」 黒男の姿は殆ど目の前だ。 もうほとんどが火に包まれたエプロンを、黒男に向けて投げた。 あっさり避けられた。 「ふん、火が怖いとでも思ったか」 あざけるように黒男が言う。 顔が舐められそうなぐらい近くにある。 マスターがこちらに一生懸命近づいてくるのが視界の端にうつる。だけど、ぽたぽたと血が落ちている。 マスターがなにかを言っているけれども聞こえない。 聞こえるのは狼の息づかいと、私の心臓の音。 大丈夫、ここまで近くなったら、はずさない。 深呼吸を一つしてから、袂に隠していたライターで火をつけた。 黒男の毛並みに。 熱い。だけど、手を離すわけにはいかない。 「っ!」 黒男が弾かれたように、私から距離をとる、そのぎりぎりまでライターを押し付けていた。 ちりちりと焼け焦げた匂い。 毛が燃えている。 黒男が、火を消そうと躍起になって転がった。 マスターが驚いたようにこちらを見ている。気がする。狼だから表情とかよくわかんないけど。 軽く火を消し終わった黒男は、 「おのれっ、小娘っ!」 叫びながら再び私に近づいてくる。 「っ!」 腰が抜けていた私は、咄嗟のことに動けず目をつぶる。 獣臭い息が頬にかかり、肌が粟立つ。 ただただ、ネックレスを握りしめた。ただの習慣で。 恐怖でもう声はでないけれども、ピラマ、パペポ、マタカフシャー。唇が自然にそう唱える。 冷たくて固い何かが頬に軽くあたり、 「理恵っ」 マスターの声がいやにはっきり聞こえた。 最期に聞いたのがマスターの声なら、それはそれでいいかなーなんてこともちらっと思った。なんか、呼び捨てだったし。 そのあとのことは、よくわからない。 頬にあたっている、牙なんだか爪なんだかに力を加えられ、ああもういよいよだめなんだと、ネックレスを強く握ったその瞬間、 「ぐっ!」 ばんっと弾けるようにして、黒男が離れたのがわかった。 同時に、目をつぶっていてもわかるぐらい、明るい光が自分の周りに発生したことも。それは本当に一瞬で消えたけれども。 どんっと、何かが落ちたような音がする。 ゆっくりと目を開けると、黒男が、三メートルぐらい遠いところに、背中から倒れ込んでいた。低く呻いて、動かない。 え、なにごと? マスターからも困惑した空気が感じられたが、一番はやく気を取り直したのはマスターだった。 「理恵ちゃん!」 右足をひきずるようにして、マスターが私の前までやってくる。 「……マスター」 何が起きたのかがわからない。 頬を何かが伝う。あれ、私もしかして泣いている? 慌てて片手で押さえたら、ぺっとりと赤かった。気づいたら、じくじくと痛みだす。 さっきので怪我したのか。 「理恵ちゃん、ごめん」 私の前に来たマスターはそう呟くと、顔を近づけて来た。狼のまま。 体が固まって動かなかったのは、狼が恐かったのか、マスターだったからなのか。 マスターは一度、ぺろりと私の頬を舐めた。犬がするみたいに。 あたたかい舌が、触れて、離れた。 マスターはすぐ、顔を離す。 それになんだか、涙が浮かんできた。視界が滲む。 かたかたと、両手が震える。それを抑え込むように、両手を握り合わせる。 怖かった。 怖かったんだ、それはもう、間違いなく。 死ぬかと思った。 「……ごめんね、理恵ちゃん、ごめん」 マスターの言葉に、何も返せず、ただ首を横に振った。 マスターの声が、あまりにも沈んでいるから、私は大丈夫ですよ、って言葉をかけて、笑った方がいいんだと思った。それでも、上手く笑えそうも無くて、ただ黙って首を横に振った。 「ごめん」 マスターは、もう一度呟いた。 |