「私と恋仲になって、そして心中して?」 ここなが微笑みながら告げると、 「はぁ?」 目の前の男は、心底不可解そうな顔をした。 ここなの通勤経路である地下道。そこにその男がいた。 あまり人が通らないその地下道では、近所の小学生が授業で描いたという絵が、不気味な笑顔を壁一面に浮かべている。薄気味悪いけれども、その趣味の悪さが心地よくて、ここなは気に入っていた。 そんな場所に突然現れた異物。その男は、ダンボールを地面に敷き、その上に面白くもなさそうに座っていた。荷物は小さな鞄が一つだけ。どう考えても、ただのホームレスのその人から、ここなは目が離せなくなった。 ホームレスという言葉からここなが連想するよりもこぎれいで、若くて、何よりも整った顔立ちの男。一言で言うと、割とタイプの。 立ち止まり、上から下まで眺める。 「おねーさん、こんな夜中に、こんな暗いところで、こんな怪しい人じっと見てるとか、危ないよ?」 その男性は、ここなに向かって呆れたように言った。 ひそめられた眉と、皮肉っぽく歪められた口元。 自分のことなのに。自分のことをぽーんと突き放した言い方。 その瞬間、この人以外、考えられなくなった。 その日はそのまま立ち去ったけれども、ここなの心はあの日以来、あの男の元に置きっぱなしだ。 「おねーさん、襲われるってば」 もう三日目になるやり取りに、男は呆れたように告げた。 三日間、男は変わらずそこに座っていた。何かを諦めたように、何もせず。 「あなたに?」 三日目、初めてその男に言葉を返す。 男は、声が返って来たことに少しだけ意外そうな顔をして、 「いや、俺は襲わないけど。一般論として」 もっと明るい道を通りなよ、なんて付け足した。 「あなたは、ここに住んでいるの?」 「住んでるっていうか、一時的な居住地?」 「これからも、ここにいるの?」 「ずっとかどうかは、わからないけど」 地下道の灯が、かちかちと点滅する。 「ねぇ、それなら」 ここなは微笑み、 「うちに住まない?」 「なんでそうなる」 即、つっこまれた。 「おねーさん、危ないよー。それ、本当に、襲われるよ」 男は怒ったような顔をする。 「父親みたいね」 微笑んだまま、首を傾げる。 「私、父親いないから想像だけど」 男は困ったような顔をした。 「なんでそういうことを今言う」 小さく呟かれた言葉に、ここなは笑う。良い人そうだ。 「今日のところは、大目に見てあげる。考えといてね」 それだけいうと、男の返事も待たず、家に向かって歩き出した。 「え、なんで俺が譲歩された形なの?」 背後で男が呟くのが聞こえた。 次の日は仕事が休みだったので、あの地下道は通らなかった。 その次の日には、男はそこにはいなかった。 逃げられた。 直感的に思った。 仕方ないか、と諦めて笑う。運命の人だと、思ったのだけれども。 かちかちかち、と灯が点滅する。 切れてしまう前にここを立ち去ろうと、足を速める。怖くはない。しかし、ちかちかと点滅する灯は生理的に気持ちがいいものではない。 点滅する灯に背を押されるようにして足早に階段に向かうと、しゃーっと背後から音がする。聞いたことはあるけれども、すぐになにかはわからない音。 なんだろう? なんだっけな、この音? 確かに聞いたことがあるのだけれども。確認するために振り返ろうとした瞬間、 「やぁっ」 突き飛ばされる。地面に体を打ち付ける。 「いった」 体を起こした時には、肩にかけたはずの鞄がない。 ここなの鞄をもった自転車が、地下道のスロープをダッシュで上っていく。 これは、つまり、 「ひったくりっ!」 思わず大きな声がでた。 地下道に、その声は響く。反響する。 叫んだところで自転車相手に今更追いつけるわけもなく、 「お財布! あ、ケータイも!」 てんぱりながら鞄の中身を次々に叫ぶ。 「っていうか家の鍵! 帰れないっ!」 「うひゃっ」 ここなの叫びをかき消すように、間抜けな声がした。 「え?」 派手な音を立てて自転車が地上から降ってくる。 慌ててここなは、階段から少し距離をとった。 遅れて、自転車に乗ったひったくり犯が落下。 「大丈夫ですかー?」 今ひとつ、緊張感のない声とともに誰かが降りてくる。 「私の鞄っ!」 ここなの鞄を片手に持って。 「ああ、はい、どうぞ」 あっけらかんと言いながら、その人がここなに向かって鞄を放る。慌ててそれをキャッチする。 降りて来た人物は、自転車と共に地面に伏しているひったくり犯の背中に、なんのためらいもなく片足をのせると、ぐりぐりと地面に押し付けだした。 「うげ」 潰れた蛙みたいな音がした。 「大丈夫でした?」 足はぐりぐりさせながらも、のんきなその声に、 「あ、はい、ありがとうございます」 鞄の中身を確認していたここなは慌てて、微笑むとお礼をいい、 「あ」 顔を見て、固まった。 「ああ、いつものおねーさん。だから、暗い道は危ないって言ったでしょ?」 件のホームレスの男性が、あきれたように笑いながら言った。 「ここから、立ち去ったんじゃ」 「電気切れそうだから違う場所探してたんだけど、見つからなかったから戻って来たとこ。このちかちか、日に日にうざくなってくんだよねー」 あっけらかんとその人はいう。 彼の足元で、ひったくり犯がうめく。 彼は、さもいま思いだしたかのようにひったくり犯に視線を落とし、 「あー、これ、どうします? 俺、個人的に警察に関わりたくないんで、警察に突き出すならおねーさん一人でやって欲しいんだけど」 ここなは顔を地面に押し付けられ、うめくひったくり犯をしばらく見つめ、 「別にいいです。鞄戻って来たなら、面倒だし」 あっさりと言葉を返した。 「他に被害者がでるとか、そういうの、私には関係ないし」 言いながら、鞄をあけ財布を取り出す。 「はい」 三枚の諭吉をひったくり犯の顔の前に差し出す。 「はあ? バカにしぐえふ」 怒ったようにひったくり犯が何か言いかけたが、背中にさらに重さが加わって言いきれなかった。 「ううん。これあげるから、ここじゃないところでひったくりしてね、ってこと。私、この道が近道だから変えたくないの」 小首を傾げてここなは言う。 「……変なやつ」 ひったくり犯が小さく呟いた。 それを承諾と受け取り、ここなはひったくり犯の尻ポケットにお札を突っ込む。 「離してあげてください」 言うと、男は素直に足をあげた。 ひったくり犯が、 「もうこねぇよ、こんな変なとこ!」 捨て台詞のようなものを残し、フレームのひしゃげた自転車とともによろよろとさっていった。 「いいの?」 その間抜けな後ろ姿を見ながら、男が尋ねてくる。 「ええ」 ここなは頷き、 「ところで!」 ひらりと身を翻し、男の両手を掴むと、上目遣いで微笑む。 「お礼がしたいのでうちにいらっしゃいませんか?」 少し首を傾げて、瞳を潤ませて、自分が一番可愛い角度に瞬時に持っていく。 「いやいやいや」 男は早口で言うと、首を光速で横に振る。 「なんでそうなるの?」 「だってせっかく助けて頂いたのですし」 「いや、お礼とかいいから」 「恩人ですから! きちんとお礼をしないと」 「いや本当いいから」 「すぐそこですから」 「そうじゃなくて」 「うちに来ないと大声だしますよ? 変態がいるきゃぁ! って」 「ええっ、恩人脅すのー?」 男が困ったように言う。 「ええ、私、目的のためなら手段は選ばないんです」 言って地上の方を見上げ、 「あ、おまわりさーん、このひとぉ」 見えないおまわりさんに向かって声を上げる。 「行きます! 行かせて頂きます!」 男がそれを遮るぐらいの大声で言った。 「そう、じゃあ、行きましょう」 あっさりとここなは微笑むと、男の腕に両手を絡め、軽い足取りで家に向かった。 |