京介のバイト先に向かうには、例の地下道を通る必要がある。 少し悩んだけれども、昼間だからいいか、と地下道を通ることにした。 階段をおりる。地下道では今日も笑顔が壁一面に広がっている。 昼間に見ると、また少し違った薄気味悪さだな、とぼんやりと思った。 それはいい。そんなことはどうでもいい。はやく、彼の元に。 自然と早足になる。 「ここなちゃん」 背後からかけられた言葉に、驚く。 振り返る。 「久慈、さん?」 俯いたまま、立っていたのは常連客の久慈だった。 そういえば、今、彼が立っているところは、最初京介がいた場所だな、と突然懐かしく思った。 ああ、こんな人のこと、どうでもいいから早く彼に会いたい。 「どうしたんですかぁ、久慈さん?」 もう店とも関係ないはずなのに、自然といつもの営業の口調が出てきた。 「ここなちゃん、最近この道通らないよね?」 返って来たのは意外な言葉だった。なんでそんなこと、この人が知っているの? 「え?」 「待ってたのに」 「……久慈、さん?」 一歩後ろにさがる。 彼は、何を、言っている? 待っていたって、何を? 誰を? 私を? どうして? 「だから、家まで行こうかと思ってたんだよ。ねえ、ここなちゃん」 久慈が顔をあげる。どこか焦点の合っていない瞳。 「ここで会えて良かった」 彼は僅かに笑った。焦点のずれた瞳で、唇をあげて、彼は笑った。 生理的な嫌悪感を、恐怖を与えるような笑みに、知らず知らずに喉の奥で悲鳴があがった。 本能的に逃げなければ、と思う。でも、体が動かない。 「ここなちゃん」 もう一度呼ばれた名前。 一歩、後ずさる。なんとか動いた。 「ねぇ」 久慈の視線から逃れるように首を横にふり、足を一歩後ろへ。 動かなければ。 必死にそれだけ考える。 久慈が一歩近づく。 逃げなければ。 転びそうになりながらも、足を後ろに動かし、そのまま反転して走り出そうとして、 「やっ」 右手を掴まれた。 「なんで逃げるのここなちゃん」 「離してっ」 掴まれた腕を振り回す。振りほどけない。 「ここなちゃんが死にたいっていうから、用意してきたんだよ」 久慈が鞄から出してきた包丁に、視線が釘付けるになる。 「やっ」 あげかけた悲鳴は、腕を掴まれたのと反対の手で押さえつけられた。 誰も通らない。 どうしてここは、こんなに人通りがないの? 壁の少女が笑みを浮かべる。 「大丈夫、安心して。ちゃんと殺してあげるから」 耳元で囁かれる。声は甘い。 抱きしめられるようにして、引きずられ、階段脇の影になる部分に連れ込まれる。 視界が滲む。 「でも、その前に、いいよね?」 久慈の言っている意味がわからなかった。 壁に体を押し付けられる。 「っ」 衝撃に喉の奥で悲鳴が潰れた。 「声、出しちゃ駄目だよ?」 いいね? と優しい声で言われる。 喉元につきつけられた包丁に、何もできない。 久慈は満足そうに嗤うと、ここなの口を抑えていた手を外した。喉元につきつけた包丁はそのまま。 左手がそっと、ここなの脇腹をなぞり、下に降りる。 悲鳴をあげそうになると、唇で塞がれた。 口内に何か入ってくる。柔らかく動くそれが舌だと気づいた時には、舌を絡めとられた。 気持ち悪い。 首を振って逃れようとする、その首筋に何か冷たいものが当たり、動けなくなる。包丁の感覚。 片手でブラウスのボタンが外される。勢い余って引きちぎられたボタンが地面に落ちた。音が響く。 胸に手が触れる。 閉じた膝に割り込むように、足が絡まる。 かろうじて自由に動く両手で、久慈の体を押す。 唇が離れる。 息を吸い込む。 「っ、キョースケっ!」 思わず出た声に、久慈がかっとなったように包丁を首筋に向け、 「や」 ここなは目を閉じた。 直後、鈍い音がする。 衝撃は自分には来ない。 驚いて目を開けると、久慈の体が後ろにふっとんだ。 あっけにとられる。 「なにっ、やってんだよ!」 怒ったような顔をした、京介がそこにはいた。倒れた久慈と、ここなの間に割って入る。 「……キョースケ」 小さく名前を呼ぶ。 京介はここなに返事は返さず、久慈に近づく。 ゆっくりと久慈が立ち上がる。そのあごに、容赦なく左足をぶちこんだ。 久慈の頭が後ろに倒れ、地面にぶつかった。 まだ右手に握られたままだった包丁を見て、京介は眉を顰める。そのまま、右手を踏みつけ、包丁を手放させると拾い上げた。 「包丁は料理するためにあるんだぞ」 どこか淡々と、突き放すように言う。 言いながら久慈の胸元に右足を振り下ろした。 くぐもった声が久慈から漏れる。鈍い音がする。 「キョースケ」 泣きそうになりながら名前を呼ぶ。 「こいつ、知り合い?」 振り返り、京介が尋ねた。 「お店の、お客さん……」 「ああ、じゃあ、名前とか仕事場とか、知ってるな?」 「う、うん……」 何故彼がそんなことを聞くのかがわからなくて、困惑したまま頷く。 京介は、足はそのままに、身をかがめ、久慈に顔を近づける。 「次にココに何かしたら、仕事場とか家族とかにばらして社会的に抹殺したあと、嬲り殺す」 淡々と言った。 あまりに淡々と、突き放した声でいうから、ここなも一瞬身を引いた。 「返事は?」 久慈が小声で何かを言う。 「聞こえない」 冷えた声。 「……警察に、言うぞ」 久慈がかすれた声で言う。 はっ、と京介は鼻で笑った。 「お前、そんなこと言える立場かよ」 足に力を込める。 「だって……。これは、犯罪だぞ」 「殺人未遂に、それ以上のこともしようとしてた下衆が何言ってんだ」 心底呆れた様に京介が言う。 「ああもう、いいや。いっそ、今ここでぶっ殺してやる」 本気で疲れたようにそう言うと、持っていた包丁を高く掲げる。 ひっと久慈が悲鳴をあげ、 「ま、キョースケ!」 思わずここなが叫ぶ。 駆け出して、彼の右手にしがみついた。 「ココ?」 包丁を持つ手を抑えるここなを、いぶかしげに京介は見る。 「何、こいつ庇うの?」 「ここなちゃん、ここなちゃんはわかってくれるよね? そうなんだ、ぼくはここなちゃんのために、ぼくはここなちゃんのために」 「お前、五月蝿い」 何を勘違いしたのか喋り出そうとした久慈を睨んで、黙らせた。 「違う」 久慈に視線を合わせることは怖くて出来ない。ただ、京介の顔を見る。 「キョースケが殺人犯になったら、いやだ」 「ココ」 「大丈夫だから」 お願い、と呟く。 京介は息を吐く。 「ココ、離して」 「キョースケ」 「わかったから」 笑ってみせる。 ここなが手を離す。 京介は右手を、そのまま勢い良く振り下ろす。 「っ」 漏れた声は、久慈のものだったのか、ここなのものだったのか。 ただ、包丁は、久慈の耳元すれすれに突き立てられた。 かつん、と地面に当たって音を立てる。 「次は本当に殺すから、覚悟しろよ」 言って包丁を持ち上げ、もう一度久慈を蹴った。 一房、久慈の髪が舞う。 「わかったな」 胸ぐらを掴んで上体を起こさせると、問う。 久慈はバカみたいに何度も頷いた。 「いけよ」 背中を蹴飛ばすと、久慈は何度も足をもつれさせながら走り去って行く。 手元に残された包丁を困ったように京介は見つめ、邪魔だったので途中で手放したスーパーの袋にいれた。 「ココ」 それから、ぺたりと地面に座り込んだここなを見る。 「大丈夫?」 ここなは小さく頷く。 はだけた服を一瞬痛ましげに見てから、自分のジャケットを手渡した。 「とりあえず、家に戻ろう。歩ける?」 ここなは頷き、立ち上がる。ジャケットを肩にかけ、ゆっくり歩き出した。 |