「落ち着いた?」 京介の言葉に一つ頷く。 手元には温かい紅茶。 ソファーに腰かけて、それを飲んだ。 飲み終わったカップを受け取って、京介がテーブルの上にそれを置く。 「キョースケは、どうしてあそこにいたの?」 ぼそぼそっとここなが呟いた言葉に、 「ココが心配だったから」 京介は端的に答えた。 「え?」 「ココが心配だったから、バイト早くあがらせてもらって、スーパーに寄って帰るところだったんだ」 間に合って良かった、と小さい声。 「そっか……」 ここなはぽつりと呟き、 「ココ?」 両手で顔を覆った。 肩を震わせる。 京介は少し悩んでから、ここなの頭を撫でた。ソファーに腰掛けているここなの隣、床に座って。 「……ココ、もう、大丈夫だよ?」 囁くように言われた言葉に、頷く。 「……あれは、客って言ってたよな?」 「うん……」 「ストーカーも、あれだったんだな」 「うん」 思ったよりも涙が止まらない。 「ココ」 困ったような京介の声。 「ごめんなさい」 かすれた声で呟いた。 「え?」 「迷惑、かけて」 「……迷惑なんて、思ってないよ」 顔をあげて京介を見る。 「無事でよかった」 彼が笑うから、また涙が出てきた。 「ちがくて……」 「ん?」 優しい声。このまま黙っていたら多分、京介は慰め続けてくれる。優しくしてくれるし、そばにいてくれる。 でもきっと、それじゃだめだ。 そんなこと出来ない。好きだから、嘘はつけない。 「久慈……、あの人は、私が心中したいって言ってたいから、だから、私を殺そうとしてて」 頭を撫でていた京介の手が止まる。 「だから、自業自得なの。私が」 京介の視線を正面から受け止める。涙で滲んで、京介の顔がよくわからない。 「私が、あの人を煽って。だから」 ぽろぽろと、涙が出てくる。自分が悪いのに、泣く資格なんて、ないのに。 「……ばか」 京介が小さく呟いた。 びくっと、身を竦める。 「泣くぐらいなら、心中したいとか、言うなよ」 かすれた声。 男の人にしては小さな掌が、ここなの涙を拭った。 クリアになった視界にうつるのは、泣きそうな顔をした京介の顔。 「……キョースケ」 「頼むから」 哀願のように呟かれた言葉。 「生きて」 「私、は」 それから視線を逸らす。 「死にたいんじゃない、心中したいの」 「ココ」 少し大きい、京介の声。 「同じだろうが、それ」 小さな悲鳴のように吐き出された言葉に、 「違う」 首を横に振る。 「キョースケと一緒に、死にたいのっ」 ここなも悲鳴のように言った。 「ココ」 「だって、いつか、いなくなっちゃうんでしょ、キョースケも。今のままなんて無理なんだもん。絶対無理なんだもん。昨日や今日みたいなことがまたあって、ずっと一緒なんて、永遠なんて、ない」 だから、と涙声になる。 「だから、心中して終わりにしたいの。幸せを幸せのままでっ」 「ココっ」 京介はどこまでも泣きそうな顔をしていた。 その顔を見ていたら、また涙が出てきた。 「なんでわかってくれないのっ」 「どうやってわかれっていうんだよっ」 「好きなのっ」 子どもが駄々をこねるように、声を張り上げる。 「キョースケが好きなのっ。キョースケじゃなきゃだめなのっ。キョースケに嫌われることを考えたら怖いのっ。いつか終わってしまうなら、いっそ自分の手で、自分のタイミングで、終わらせた方が、いいじゃないっ」 キョースケの表情は泣きそうな顔のまま、動かない。 じれたようにここなは京介の右手を掴む。自分の方に引き寄せる。 そっと、重ねるだけのキスをした。 少し、京介の目が見開かれる。 そのまま首筋に抱きついた。 「お願い」 顔を肩に押し付ける。 彼の匂いがする。 「心中してとは言わないから。だから、抱いて」 繰り返される昨日と同じ台詞。 「気持ち悪いの、あんなのに触られて」 「ココ」 「消毒」 かすれた声で呟く。 京介は答えない。 ここなも動かない。 やがて、小さく京介が息を吐いた。震えるような、吐息。泣いているのかと、思うような。 そして、京介は腕を伸ばし、ここなの背に腕をまわした。そっと抱きしめる。 それだけだった。 「……ごめんね」 しばらくの沈黙のあと、ここなが言った。そっと離れる。 「我が侭言って、迷惑かけて」 「ココ、そうじゃなくて」 「ごめん」 ここなは笑った。いつものように。 「ココ」 伸ばされた京介の腕をそっと避ける。 「忘れて」 それからソファーから立ち上がった。 「シャワー、浴びてくる」 そのまま、少し駆け足でバスルームへと逃げ込んだ。 既視感を覚える光景に、京介はため息をついた。 だから本当に、どうしたらいいのかがわからない。 何が正解だったのかがわからない。 また、傷つけた。 自分のバカさ加減に吐き気がする。 立ち上がる。せめてなにか美味しいものでも作ろう。 バカの一つ覚えみたいに、料理ばかりしているな、と自嘲した。 買ってきたまま放置していたスーパーの袋をあけ、冷蔵庫に食品をしまおうとして、 「あれ」 中身をひっくりかえす。 袋の中にいれたはずの、あの包丁がない。 「っ、ココ!」 反射的に名前を呼び、バスルームに向かって駆け出す。 返事も待たずに、ドアを開け放った。 「……変態」 浴槽のふちに服を着たまま腰掛けたここなが、笑った。 ぽたり、ぽたり、と床に液体が垂れる。赤い。 「ココっ」 ここなが右手にもった包丁を奪い取る。 「バカ、おまえっ」 何を言っていいかわからず、バスタオルを手に取るとここなの左手を押さえつけた。 ぽたりぽたりと、包丁で切ったここなの左手首から血が落ちる。 何の感慨も抱いていないかのような目で、ここながそれを見る。 白いブラウスが赤く染まる。 「お前、なんで」 京介の焦ったような言葉に、ここなは不思議そうに首を傾げた。 「死にたいんじゃなくて、心中したいんだろっ」 京介の言葉に頷く。 「だったらなんで、手首切るとか」 「これぐらいじゃ死なないから大丈夫だよ」 「そうじゃないだろっ」 ここなは微笑み、京介は怒ったような、泣いているような顔をする。 ここなの右手を引いて立たせようとすると、ここなはそれを拒んだ。 「ココっ、早く手当しないと」 「ほっといてよ、キョースケには関係ないじゃない」 ここなが吐き捨てるように言う。 「関係ないわけないだろうがっ」 怒鳴りつける。 こんなところで怒鳴ったって逆効果にしかならないとわかっていながらも、声は自然と大きくなる。 「関係ないじゃないっ」 ここなも負けじと声を張り上げた。 「キョースケにとって、私はただの同居人でしょう? もう仕事もなくて養えないんだし、無理して付き合ってくれなくていいんだからっ」 「ココっ」 きっとここなが京介を睨む。 京介も睨み返した。 それから、ここなの左手を止血するためにきつく抑える。 「関係あるんだよ」 「だから、なにが! キョースケは私と心中したくないし、別に私を抱きたいとも思ってないんでしょう。だったら放っておいてよっ!」 投げつけられた言葉。それにかちんっとくる。 「好きな奴に生きてて欲しいって思って、何が悪いんだよっ!」 だから思わず、こちらも投げ返した。 ここなが怪訝な顔をする。 「好きなんだよっ」 好きだと好意を伝える言葉のはずなのに、口にするたびに胸を抉られるような気がする。 黙っていたから、ここまで悪化した。早く言えば良かった。こんなことになるならば。 そして、この言葉はこんなところで、こんな風に言うために存在する言葉じゃない。 「嘘つき」 「嘘じゃないっ」 「だったら、せめて抱いてくれてもいいじゃないっ」 「好きなやつが弱っているところに手を出して、喜ぶバカがどこにいるんだよっ! っていうかなんだよさっきの消毒とかっ! 頭の悪い漫画かなんかか!」 ぽたり、と腕に当たった水滴に、ここなの傷口がさらに開いたのかと京介は焦った。 けれども、そこに落ちていたのは透明な液体だった。 「キョースケ?」 ここなの伺うような声。 自分が泣いていることに、ようやく気づいた。 「好きだよ」 もう一度告げる。 「……好きなんだよ」 床に膝をつき、浴槽に腰掛けたここなの膝に祈るように額をつける。 ズボンが血で汚れたのがわかったけれども、そんなこと今はどうでもいい。 「頼むから、死ぬとか言わないでくれよ」 震えた声で呟く。 「だってっ」 ここなの口から漏れたのも、震えた声。 「もう疲れちゃったの。死ぬより他に、ないじゃない」 「ココ」 「私のこと好きなら、私のお願い叶えてよっ」 「ココが死んだら、俺の願いが叶わないじゃないか」 ここなはそれを聞いて、首を横に振った。 「わかんないよ、もう」 私は、どうしたらよかったの? 囁かれた言葉に返す言葉を京介は持っていなかった。 それは、京介が聞きたかった。 |