「む」
 お昼のカレーを一口食べたここなは、小さく唸り、スプーンをくわえたまま固まった。
「なにこれ? 何カレー? 何使った?」
 ここなの眉をひそめた質問に、慌てて買って来た定番中の定番のカレールーを京介は答えた。
「お口に合わなかった?」
「ってか、なんでー、私が作るのとちーがーうー」 
 唇を尖らせる。
「おーいーしーいー」
 言葉の割に顔が不満そうで、京介は少し呆れて笑った。
「何したの?」
「特に何も」
「嘘だー」
「あー、玉葱の薄い皮を剥がしたのと、玉葱一時間半炒めたのと、水の代わりに野菜から出た水分と野菜ジュース使ったの、ぐらいかなー?」
「玉葱一時間半炒めるとか、暇なの?」
「俺が忙しいと思うか?」
 ちょっと胸をはって言った。すぐに空しくなってやめる。
「ただ、玉葱炒めるのは基本だぞ?」
「だって、あれ、涙でるじゃん」
 当たり前のように言われて、少し口元がゆるんだ。微笑ましい。
「しかし、キョースケと一緒だとご飯食べ過ぎて太るな」
 人参は好みではないらしく、御丁寧にいちいち避けて食べながらここなが言った。
「ココはもう少しふっくらしてもいいんじゃないかと」
 その細い腕を見ながら、さりげなさを装って京介が言う。
 しばしの沈黙。
「ん? ココって私のこと?」
 ここなが尋ねた。
「そう、嫌?」
「嫌じゃないよー。渾名、的な」
「うん、まあ」
 ここなは中曽根さんと呼ぶと怒るが、京介としてはあまり、ここなとは呼びたくなかった。呼ぶたびに、心中という字面を思い出すから。
 だから、こっそり考えていた妥協案だ。
「いいねー。私、ずっと渾名って近松しかなかったから嬉しいー」
「近松……門左衛門?」
 こくり、とここなが頷いた。
「まんまだな。ちょっと博識だけど」
 っていうか、いじめられてただろそれ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「同情した?」
 飲み込んだ言葉を察知して、ここなが笑う。
「いや、別に?」
「なんだー、同情から始まる恋もあるかと思ったのにー」
「結局それかよ」
 ここなは、にぱっとはじけるように笑い、
「キョースケのつっこみ好きー」
 当たり前のように言った。
 ジャガイモを喉に詰まらせそうになり、キョースケは少しむせる。
 あまり本気にしないようにしよう、と改めて思う。いちいち驚いてたら疲れそうだし。
「で、何してるの?」
「人参きらーい」
 せっせと避けた人参を、京介のお皿に当たり前のように移しながら、ここなは唇を尖らせた。
 見る間に山盛りになっていく人参。なんて言葉を返すか迷い、
「あのさ、嫌いなもの、あとで書き出しといてくれる?」
 結局、そう告げた。
「はーい、あとはね、セロリとかー」
 人参のいなくなったカレーを、幸せそうに頬張りながらここなが答える。
 嫌いな野菜はみじん切りにして混ぜてやる。考えて、京介は少し笑った。

 コットンパックをしながら、片足を洗濯機の上に載せて柔軟しつつ、歯を磨く。
 それが終わったら、化粧下地を小鼻辺りに伸ばし、塗り込み、塗り込み、塗り込み、フェイスパウダーをはたき、黄色のコントロールカラーを目の下に、ピンクのコントロールカラーを頬に塗り込み、塗り込み、塗り込む。
 リキッドファンデーションに乳液を混ぜたものを丹念に塗り込み、塗り込み、塗り込み、塗り込み、
「塗り込み過ぎじゃね?」
「んー?」
「なんでもなーい」
 パフでしっかり抑えると、フェイスパウダーを上からはたいた。マットな肌が完成する。
 ノーズシャドーをいれて、ハイライトで目元を明るくする。ピンクのチークを丸く、頬にいれる。
 ピンク系のアイシャドウをグラデーションにして塗り、目のきわは茶色で馴染ませる。黒いアイライナーを少しオーバーにひき、目頭には白いラメを少し。アイライナーは、たれ目を強調するように。下瞼にも。
 ビューラーで睫毛をあげ、つけまつげをそこにつけて、つけて、つけて、
「三枚……」
「んー?」
「なんでもなーい」
 それをマスカラで馴染ませる。下睫毛にもつけまつげを。
 眉を書いて、ピンクの口紅を塗った上にグロスを重ねた。
 そのままコテを手に取り、毛先だけを器用に巻いていく。巻きすぎないように、ゆるくふわっと、やわらかに。
 顔まわりの髪を残して、耳上の髪を高い位置で結ぶ、ハーフアッブ。
 毛先を逆立てボリュームをだし、バランスを見ながらさらに髪を巻く。
 前髪を斜めに流して、
「かんっぺき」
 ここなは鏡をみて微笑んだ。
 子どもみたいに人参を避けていたのとは違う、完全武装した女がそこには居た。
「……女ってこわー」
 一部始終を見ていた京介が小さく呟く。
「騙されたら駄目よ? 女の人は化粧でいくらでも他人になれるのだから」
 ここなが笑う。
「肝に銘じておきます」
 胸に手を当てて、ちょっとおどけて言うと、
「その必要はないわ」
 遮られる。
「だってキョースケは私と心中するんだもんね」
「だからしないってば」
 くすくすと、ここなは楽しそうに笑う。
 しゅっと香水を宙に向けて放ち、その下をくぐる。
「さってと」
 鞄を肩にかける。
「ご出勤で?」
「ええ。先に寝てていいからねー」
 軽く言い放つと、華奢なヒールを身にまとい、ここなは出て行った。
 残されたフルーティな香りに京介は宙を見上げて嘆息する。
「完全に、ペースに飲まれている」
 いいのか悪いのか。
「ってか、冷静に考えたらこれってヒモだよな」
 誰もいない部屋に言葉が響く。
 深くかかわって、傷つくのはきっと自分だけではすまない。
 いつまでもここにいるわけにもいかないし、本当に心中するわけにもいかない。だから、さっさと見切りをつけてしまわなければ。
 そう思う。
 本当ならば、いますぐにでもここから出て行くべきなのだろう。
 それでも、まだ少し、ここでくだらない同居人ごっこをしたいな、と思ってしまった。
 明日の朝ご飯は、何にしよう。