「シン……」
 可愛く名前を呼ばれたので起きたのかと思ったが、寝言だったようだ。
 なんとなく手を伸ばし、その頬を撫でる。くすぐったかったのか、
「んっ……」
 えらくエロい声を出された。
 二週間孤島に閉じ込められていて、正直めちゃめちゃ茗ちゃんに会いたかった。謎を解いたあとはいつも会いたくなるけど。
 ただ、その時に手は出さない、というのを自分ルールで決めている。
 茗ちゃんと再会した大学生のころ、恥ずかしながら俺は女遊びがかなり激しかった。
 もともと俺は実家の家族との折り合いが小さいころから悪かった。大病院の院長一家の長男として生まれ、跡取りになるはずだった。だけど、ガキの頃の俺はまあ勉強はできないわ、そのくせ探偵小説ばかり読み漁るわで、親を含め親戚の期待値はかなり低かった。姉が、なかなか優秀だったこともあるけど。
 あの家で俺を人間扱いしてくれていたのは、死んだじいさんだけだった。
 いろいろ不満がたまっていた俺は、大学受験の時に猛勉強した。そして、姉が通っていた大学よりも、さらに偏差値の高い大学の医学部にストレートで合格した。のを、入学手続きをわざと怠ってなかったことにした。
 あの時の両親や親戚の怒り狂い具合は、かなり面白かった。
 子供のころから貯めていた貯金と、じいさんの援助で家を出て一人暮らしを始め、一年遅れで法学部の大学生になった。
 言い訳だというのは十分わかっている。それでも、あの時俺は寂しかったんだ。そして、二十歳の、我ながらまあまあ良い顔と、達者な口を持つ男が寂しさを埋める手段として選んだのは、女性だった。
 とりあえず合意の上での関係で、お互いに遊びだったということだけは主張しておきたい。それにしたって、最低だとは思うけど。
 茗ちゃんと再会したのも、合コンの席でだった。人数合わせで呼ばれた茗ちゃんと違って、俺は最初から行く気満々だったし。まあ、あの合コンに関しては、行ってよかったと心底思うけど。
「渋谷慎吾……? もしかして、厳悟のおじいちゃん先生のところの、シン兄ちゃん……?」
 目の前の女の子から、じいさんと俺の懐かしい呼び名が登場した時は本気で驚いた。
「え、もしかして……」
「あ、はい。硯茗です。その……ご無沙汰してます」
 あの時以来、まったく連絡を取っていなかったけど、ひとまず元気そうで安心した。その場は取り繕って、合コンを続け、二次会はパスして彼女を連れて別の店に行った。他人には聞かれたくない話があったから。
「その、元気だった?」
「……おかげさまで」
 笑うけど、答えるまでの間でいろいろあったんだろうなと思った。
「法学部なんだよね。……ご両親のことで?」
「はい。弁護士に、なりたいと思って」
 でも、いろいろあったにしても、今は過去に向き合って弁護士になろうとしている。すごい子だなと思った。対して俺は、
「渋谷さんは、どうして法学部なんですか? お医者様になるんだとばっかり思っていましたけど」
「あー、実家は姉が継ぐから」
 俺は家から逃げて、探偵になりたいという夢みたいなことをほざきながら、なんとなく法学部に入っただけだった。
 近状報告とか、当たり障りのない話をして、そのあとは終わった。終電にぎりぎり滑り込む。
 メインの乗り換え駅を過ぎてしまえば、混雑は多少軽減される。空いた席に彼女を座らせ、たわいもない話をしていた。
「あ、次で降りますね」
 茗ちゃんが言った時、俺はそっか、とか言って笑った。
 気をつけて。またね、連絡するね。そう言って別れるつもりだった。最初は。
 だけど、またっていつだろうと思った。
 連絡して、この子はまた俺に会ってくれるのだろうか。つらい思いをした時に出会った、俺なんかに。
 そして、俺はこのまま帰って、今日は一人で眠らなければいけないのだろうか。
 この子を逃したらいけない。この子とだったら、真人間に戻れる。あの時、小さな女の子を守りたいと思った、あのまっすぐな心を今ならまだ取り戻せる。そんな風に考えたんだ。
 電車がホームに滑り込み、腰を浮かしかけた彼女を遮るように、
「茗ちゃん」
 名前を呼ぶと、顔を近づける。
 電車内だとか、そんなこと考えなかった。
 もしも泣いて嫌がられたら、諦めようとは思っていた。
 だけど茗ちゃんも目を閉じてくれたから、そのまま彼女の唇に自分の唇を重ねる。
 ドアが閉まったころ、唇を離し、
「終電、なくなっちゃったね。うちに来ない?」
 そう誘ってみた。彼女は小さく頷いた。
 今ならわかる。あの時の俺たちはお互いにあちらこちらに傷を負っていて、それを慰め合う相手が欲しかっただけだ。そしてお互いに、過去を知る人物は便利だったのだ。
 気持ちのメインは茗ちゃんになっていた。それでも、関係をちゃんと切らないままの女の子も何人かいた。あの頃の茗ちゃんが文句を言うことはなかったから、やっぱりあの時のあれは、傷の舐め合いだったんだ。
 大きく変わったのは、多分じいさんが死んだ時。茗ちゃんと再会して、半年後のことだった。
 九十も超えていたし、いわゆる大往生というやつで、本人はかなり幸せそうな顔をして逝きやがった。だけど、俺は唯一味方でいてくれた親族を失った。
「お前はもう、この家には関係ない。葬儀にも来るな。恥さらしが」
 両親と姉に、完全に絶縁を言い渡された。あいつらに優しくされた記憶なんて全然ない。それでも、心のどこかで期待していたのだ。家族として扱ってくれることを。
 心が折れた俺が向かったのは、茗ちゃんの家だった。
 家族のことを相談できるのは、茗ちゃん以外にいなかったから。二十年前のあの夏の日、茗ちゃんを連れて帰った俺を家族は詰った。余計なことばかりして! と。もっとも、あの頃はまだじいさんが元気だったし、一喝してくれたおかげで面と向かって文句を言われたのは最初だけだが。
 それでも、茗ちゃんはあいつらがどんな人間を知っている。だから、俺は茗ちゃんにすがりついたのだ。ただ、慰めて欲しくて。一人になってかわいそうに、って言って欲しくて。
 だけど、茗ちゃんは、
「ねぇ、失礼な言い方だけど、おじいさまの遺産ってかなりあるわよね?」
 思いがけないことを言い出した。
「え? あ、うん。あるけど」
「もしもだけど、ある程度まとまったお金があったら、あなたがやりたがっている探偵事務所ができるわよね?」
 その頃の俺は、ちょっとだけ学内でなんでも屋のようなことをやっていた。普通の企業に就職する自分が想像できなくて、探偵事務所でもやりたいと言っていたのだ。あれは半分夢物語だったが、茗ちゃんは真剣に覚えていてくれたらしい。
「え、でも俺に相続権とかなくない?」
「私、あのおじいさまがあなたにびた一文も残さないってありえないと思うの。おじいさまが亡くなれば、あなたが渋谷の家から追い出されるのは明白だったし。だったら、残しているんじゃないかしら?」
「何を?」
「遺言書」
「そんなものがあるって、俺聞いてないけど……」
「あるとしたら、多分あなたに有利であの人たちには不利なもののはず。そんなものがあったとしたら、隠蔽するに決まっているわ、あの人たちなら」
 人の家族に随分な言い草だが、それには賛成できた。
 あいつらならば、やりかねない。院長の座を退いてもなお、患者から好かれているじいさんを疎ましく思い、金が欲しいと口にしていたようなやつらだから。
「探してみる価値はあるんじゃない?」
 茗ちゃんが微笑んだ。
「そしたらあなたは、やりたかった探偵事務所をやればいい」
 ね? と笑う。
 そして本当に、あいつらが隠していたじいさんの遺言書を見つけてくれた。実際に動いてくれたのは、今の茗ちゃんのボスである上泉先生だが、それでも彼女に頼んでくれたのは茗ちゃんだ。
「遺言書の隠蔽は相続人の欠格事由に当たりますけど、どうするんですか?」
 偽物だの、守銭奴だのやいやい言ってくる親族を、冷たい目で睨む。元敏腕検事の眼力は俺でもおっかないと思う。
 本来ならば、隠蔽したあいつらには相続する権利がないとして、俺が全部もらうこともできた。だけど、それをやると恨まれてひどい目に遭うはずだ、という上泉先生のアドバイスに従って、遺言書どおりの相続で手を打った。
 それだって、俺が探偵事務所を開いて、しばらく暮らしていくにはなんの問題もない金額だ。
「本当にありがとうございます、上泉先生、茗ちゃん」
 片がついて頭をさげる俺に、茗ちゃんは、
「当たり前じゃない慎吾。昔、あなたは私を助けてくれたんだもの。今度は私が助ける番でしょ?」
 綺麗に微笑んだ。
 それを聞いて、不覚にも俺は泣きそうになった。
 ああ、この子を俺はちゃんとあの時助けられていたんだ。
 今更ながらに、ちゃんと理解した。不安だったんだ。あの時の俺は、余計なことをしただけじゃないかって心のどこかで思っていた。俺じゃなくてもっと他の人の方が、彼女にいい道を提示できたんじゃないかって。あんなギスギスした家じゃなくって、別の場所に避難できた方がよかったんじゃないかって。
 だけど、間違ってなかったって教えてくれた。
第五章 名探偵の場合