ロー内恋愛ー26歳の男

「ごめんね」
 敬子さんと別れてから、ヒロ君はこっちを見ずにいった。
 敬子さんを乗せた電車はホームから出て行く。
 ホームの端っこで、距離をとったまま、あたし達は立ち尽くす。他の乗客たちは、いそいそと階段を上って行く。
「見栄、はっちゃった」
 そんなこと、言われなくても知っているよ。
「ううん、ごめんねー、一緒にいたのがあたしなんかで。サクちゃんとかだったら美人さんだし丁度よかったのにねー」
 出来るだけ声を大きく、いつものように、告げる。
 ね、でも知っているでしょう? ヒロ君はあたしなんかより全然頭がいいんだから。知らないなんて言わせない。民法94条2項。虚偽表示の無効は善意の第三者には対抗できないんだよ? 何も知らない敬子さんたちには、あたしたちはさっきのは嘘でーす、なんていえないんだよ。何も知らない善意の第三者の信頼を保護しなければいけないから。法律行為じゃなくても、嘘はついちゃだめだよ。だから本当のことにしようよ。
 だから、ねえ、
「本当にしちゃおっか」
 思わず口走る。
 言った瞬間に自分でびっくりした。
「へ?」
 ヒロ君が振り返ったので、慌てて笑顔を作る。
「本当に付き合っちゃおうか」
 よくもまあ、ぺらぺらぺらぺら次から次へと言葉が出てくるもんだ。微笑んだまま。
「え?」
 ヒロ君が固まる。
 何も言わない。
 駅のアナウンスが響く。三番線には電車が参ります。
「ちょっとー、なんでそんな顔するわけー!」
 いつもよりも声を高くして、頬をふくらませる。
「え?」
 ぽかん、としているヒロ君の肩をばしっと叩く。近づけた、だから、大丈夫。
「そんなにあたしと付き合うのが嫌なら、嘘でもそういうの言わないでよねー! 杏子さんはナイーブなんですよー! もー」
 いいながら、ばしばしと肩を叩き、行こう? と歩き出す。
「杏子ちゃん!」
 慌ててついてくるヒロ君を振り返り
「本気にしたの?」
 笑ってやる。
 ホームに電車が入ってくる。
「え、冗談?」
「本気にされた挙げ句、どうやって断ろーみたいな顔されて、あたしかわいそうー。超可哀想ぅ。これ、不法行為かなんかにならない? 慰謝料請求したーい。精神的苦痛!」
 笑ってやる。
「いや、そっか。そうだよねー」
 そうだよねーって、なんだ。思うけれども笑ったまま、階段を上って行く。
「ごめんって! ちょっとびっくりしちゃっただけで」
 ヒロ君も駆け上がり、あたしの隣へ。
「杏子ちゃんは、可愛い、いい子だと思うよ。決して、杏子ちゃんが嫌だとかそういうんじゃなくって!」
 可愛い、いい子だと思うのならば付き合ってもいいんじゃないの? いい加減、怒るぞ?
 などと思いながらも言葉に出さない。出せない。昔のあたしなら、言っていただろうに。
「いいよー別に。嫌じゃないけど、カノジョにはできないんだよねー?」
 顔を覗き込むようにして、微笑むと、そのまま階段を駆け上がる。今ぐらいの意地悪は許されるはずだ。
「ちょっと、杏子ちゃん!」
 追いついてこないでいい。しばらく、放っておいて欲しい。と、思うけれどもそんなことは言えず、ヒロ君が走りだそうとする気配があり、
「あれー、櫻井?」
 声がする。
「砂押……」
 ちらっと振り返ってみると、ヒロ君と同じ演習クラスの人だった。今の電車で来たんだ。
「おはよー」
 砂押君だっけ? よく知らないけど、今だけは感謝する。偉い!
「先、行くよ」
 一応声だけかけて、返事を待たずに、あたしは改札を飛び出した。逃げ出した。