別れ難き恋人

 法科大学院生。
 それは、司法制度改革の罠にはめられ、合格率八割の幻に踊らされ、学部よりもはるかに高い学費を支払いながら、三振しても終わり五年経っても終わり、下位ローなら合格しても就職難な世界へ飛び込むために、貴重な二年乃至三年を棒にふることを選んだ、かなりギャンブラーでアホーな集団のことである。

 と、友達の友達が言っていたそうだ。
 まあ、わからんでもない。

 根岸清彦。二十六歳。いわゆる法科大学院の未修三年、になったばっかり。
 司法試験合格を目指す我が身。だが、最近はもっと別の悩みがある。
 カノジョと別れられないことだ。

「清彦ー、おはよ」
「あー、おはよう」
 そう言って教室に入って来て、さもあたりまえに俺の隣の席に座る、女。
 綾瀬柚香。同じく未修三年、二十六歳、で俺のカノジョ。付き合って一年半。
 ぶっちゃけ重い。
 ぶっちゃけ、別れたい。

 最初は、講義のクラス分けが同じだったことから仲良くなった。
 告白してきたのは向こうから。
 まあ、嫌いじゃないタイプだったし、楽しかったし、オッケーした。正直なところ、久しぶりの学校生活! みたいなものに浮かれて、時機に後れた青春を享受したかった、といっても過言ではないね。
 しかし、付き合ってみると、これがなかな、想像以上に曲者だった。
 二年になったとき、必修などの他に、授業を選べるようになる。それを同じ授業をとりたがる。
 それに一体なんの意味があるのか。
 俺は行政法が苦手だから、行政法に力をいれるように演習をとった。柚香はそれなりに行政法は得意で、苦手なのは俺が得意な会社法のはずだ。それなのに、行政法の演習をとる。会社法はとらない。俺がとらないから。
「得意科目を伸ばした方がいいと思って」
 そんな風に言って笑っていたが、苦手科目潰した方がいいだろ。
 司法試験には、選択科目というものがある。
 これについては、付き合う前に話したことがあった。柚香は労働法にすると言っていた。絶対言っていた。労働者の人権を守りたいの、とかなんとか言っていた。賭けてもいい。
 蓋を開けてみれば、俺と同じ国際私法を選択していた。
「面白そうかなと思って」
 そんな風に笑っていた。
 いやいや絶対嘘だろう。一生を決める大事な試験の選択科目をそんなふわっと決めるなよ。それも、倒産とか知財ならともかく、国際私法ってお前さぁ!
 そんなこんながあって、怖いなと思ったのが二年のとき。
 だから三年になるときは、何をとるのか柚香には言わなかった。曖昧にごまかしていた。
 ところがどっこい。四月になってみたら、まったく、一つも違えず、同じ授業をとっているのだ。
「あれれ、被っちゃったね。でもこれでずっと一緒だね、うふふ」
 いやいや、こえーよ。助けて、ストーカー規制法さん!
 お昼も夜も、一緒にラウンジで食べるこになっている。一日べったりで正直しんどい。
 ちょっとでも他の女の子、特にカレシなしに話かけたのがばれたら、すっごい顔されるし。いやでもさ、話するじゃん? 勉強の話、するじゃん? しようよ? しちゃだめなの?
 しかし本当、恋愛スイッチがはいったころの、テンションの高さでうっかり同棲しないで、遠くからだけれども自宅通いを通していてよかった。あの頃の俺は、偉い。

 今日は久しぶりに、一人での昼だ。
 柚香はレポートが終わらないからお昼ご飯食べられないよえーん、とか言ってきた。そっと俺のレポートの下書きを差し出して来た。
 手伝って欲しいなちらっちらっとかされたが、それには気づかないフリをして、一人ラウンジに向かう。
 給湯室でカップやきそばにお湯を入れ、湯きりのため三分そこで待機していると、一人の女の子がやってきた。
 あー、この子見たことあるな。治と同じ演習の子で、例のギャンブラー発言の子だろう。
 ぼんやり見るでもなく見ていると、彼女は春雨ヌードルを作ろうとカップに春雨をあけ、具材を入れようとして、
「あ」
「あー」
 盛大にカップを倒した。
 春雨が飛び出て、上手い具合に三角コーナーにインする。
 これはこれは……。
 目の前で起こった盛大な事故に何も言えないでいると、
「……おひる」
 彼女は小さい声で呟いた。
「なけなしのチャージで買ったお昼……。もうチャージない。お財布なんでわすれたの……。サクちゃん今日休みなのに。お昼……」
 ぶつぶつと怨嗟の声。
 ……えっと、つまり、食べるものないわけ?
 しばらく彼女は呪いの言葉をシンクに向かって吐き出していたが、
「すみません、いいですか?」
 三分たった俺が声をかけると、ゆっくりとどいた。
 あからさまにがっくりと肩を落としたまま、カップを捨てて、去っていこうとする。
 ……いや、さすがにこれは、スルーできないな。
「あの」
 声をかけると、泣きそうな顔が振り返った。どんだけ飢えてたの、この子。
「ちょっと待ってて」
 そう声をかけると、やきそばはそのままに、ロッカーに向かう。
 一人一つ与えられているロッカーをあけ、買い置きしていたカップラーメンをとった。
 戻ると、彼女は困ったような顔でちゃんとちょっと待っていた。素直だなー。
「はい」
 カップ麺を渡す。
「え?」
「安かった時に買い置きしていたやつだから。どうぞどうぞ」
「ええっ、いいんですかっ!」
 テンションが高くなる。
「お財布ないんでしょう?」
「ありがとうございます!!」
 ぺこぺこと頭をさげられる。
「あ、あのお礼、今度するんで、お名前」
「あーいいからいいから」
 これは社交辞令とかじゃなくって、ガチで。だって女の子にカップ麺あげたとかばれたら柚香に殺される。
「ありがとうございましたー!」
 声が後ろから追ってくる。
 いやー、いいことをすると気持ちがいいね。
 と、いい気分になっていた。
 そのときの俺は。

「あのっ!」
 三日後、ラウンジで。いつものように柚香とのランチタイムを過ごしていた俺は、後ろから声をかけられて、正直びくっとした。
 振り返る。
 あのときの、カップ麺の子がいた。
「よかった、ずっと探していて」
 ああ、うん、まあ、そうだよね。名乗らなかったところで、学校一緒だし、学年も一緒なんだもん、すぐに見つかるよね。やっちまったね、こりゃ。
 隣の柚香が恐ろしい程冷たい視線を、彼女に向けているのがわかる。
 うん、柚香さんは少し落ち着こうか。
「この間は本当ありがとうございました! これ、カップ麺代です!」
 そう言って、小さなポチ袋にはった小銭を渡される。
 まあ、当然、俺は受け取れない。
 隣で嫉妬の塊であるカノジョの柚香さんが睨んでいるからだ。
 俺がいっこうに受け取らないから、カップ麺の子は怪訝な顔をする。
 どうしよう。どうしたらいいんだろうと、思っていると。
「っ! 杏子ちゃんっ!」
 ラウンジの扉をあけて入って来た、同じ演習のヒロが駆け寄って来た。
「ヒロくん?」
「なにやってんのっ」
「え、この前カップ麺もらったからお礼に」
「違うよ杏子ちゃん、それはこいつじゃないよ別人だよ、もーうっかりさんだなー。じゃあちょっとあっちいこうか、じゃあな!」
 ヒロは流れるようにそういうと、杏子ちゃんとやらの肩を押して、対角線上の反対方向に向かっていく。
 ありがとうヒロ。
 さすがヒロ。
 演習での飲みの席とかで、柚香の嫉妬深さを見ていただけのことはあるね。助かるよ。
「……カップ麺?」
 柚香が呟く。
「なんのことだろうね?」
 俺は微笑んで言葉を返した。
「勘違いみたいだけど」
「……ふーん」
 柚香は納得してるのかしていないのかわからない口調で呟くと、お昼を食べる作業に戻った。
 ちらりと視線をヒロの方に向ける。
 ヒロがちゃんと説明しているようだ。ここからじゃ声が聞こえないけど、アテレコできるぞ。
「だめだよ、杏子ちゃん。あいつのカノジョ、とっても嫉妬深いんだ。女の子にカップ麺あげたとかばれたら、杏子ちゃんもあいつも、殺されるぞ」
「えっそんなに?」
「そんなにだってほんとう。え、で何? カップ麺のお礼?」
「そう……」
「あー、じゃあ俺が渡しとくよ」
「え、あ、うん。お願い」
「はいはい。杏子ちゃんは、お昼これから?」
「え、うん」
「そっか、じゃあ、一緒に食べよう」
「え!? いいの?」
「なんで駄目だと思うの? 食べようよ」
「う、うん。ありがとう、うふふ」
 ってなところだろう。
 っていうか、今完全に余計な恋心読み取ったな反省。

 その日の夕方、喫煙所に行くと、ヒロがいた。
「あ、さっきはありがとう、マジで」
「いいえー。あ、よかった、これ、杏子ちゃんから」
 ポケットから例のポチ袋を渡される。
「あー、サンキュー」
 受け取ると、大変申し訳ないが中身をだして、ポチ袋をは証拠隠滅のため捨てさせて頂いた。
「……あの子、怒ってた?」
 感じ悪かっただろうなーと思いながら聞いてみると、
「杏子ちゃんはそんなことで怒るような子じゃないよ」
 笑いながら言われた。
「まあ、カレシが他の子に優しくするいい人だっていうの、何が嫌なのかわかんないなー。まわりから嫌われまくっているカレシより、よっぽどいいのになーって、心底不思議そうな口調で呟いていたけれど」
「あー」
 煙草に火をつける。
「いい子だねぇ」
 しみじみとした口調で呟いた。
 そういう風に思ってもらえないもんかねー、うちの柚香さんにも。
「しかしあれだね、束縛どんどん厳しくなってくな」
「ホントそれ」
「焦ってんだろうねー、お前のがしたら、次見つけるの大変そうだし。ここ以外に出会いないし、年齢もあれだし」
「……リアルなこと言うなよ」
 わからんでも、ないけどさ。
「もういやだわー」
「……別れんの?」
「できれば」
「……できんの?」
「それなー」
 無理、だよなー。
「……ところでさ、ヒロ」
「うん?」
「お前、あの杏子ちゃんとはどういう関係?」
「へ? まあ、友達、かなぁー?」
 あ、これはだめだな。あれだけ好き好きオーラだされて気づいてないんだ、こいつ。頑張れ、杏子ちゃんとやら。


 別れようとしたことは、一度や二度じゃない。
 けれども、なかなか上手くいかない。
 まあまず、この空間が問題だ。
 四六時中一緒にいて、誰とだれが付き合っているとか、みんなが把握している。別れたらすぐに噂になる。
 そんな中で別れることが、どれだけ面倒なことか、お分かりいただけるだろうか?
 柚香、同じく嫉妬深い女子達と徒党を組んでるしな。別れたいなんていったら、ねちねち嫌味を言われるに決まっている。
 さらには、俺は柚香と授業が丸かぶりなのである。別れても毎日毎日ずーっと同じ空間で授業をうけなくっちゃいけないのである。
 とんだ苦行だ。
 それならば、今を多少我慢して、このまま付き合い続けていた方が、精神的には楽なんじゃないかなーと思うわけだ。
 それから、別れたりしたら柚香がどうなるかわからないのが、怖い。
 なんかもう逆上して殺されたとしても、俺もまわりも驚かないだろう。刺激したくない。
 ちょっと喧嘩しただけで、すっごいヒステリックに切れて、死んでやるとか喚いて、ちょっとしたらごめんごめんねメールと着信を鬼のように寄越すのだ。あれで何時間、時間を無駄にしたことか。
 今の俺の一番の目標は、司法試験に合格することだ。とりあえず。
 司法試験合格までは、余計なことに患わされず、勉強に取り組みたい。別れる別れないで柚香と揉めるのとか、復縁を求める大量のメールとか、死んでやる電話とか、まわりのうわさ話とか、そういうのとは関わりたくない。
 と、ここまで考えると俺の結論はいつも一緒だ。
 今は、別れられない。
 日和見だとなんだろうと言われようと、何度考えてもがそれが最適な答えなのだ。
 刺激しないように気をつけながら、距離をとって生活していこう。いやまあ、その距離がとれないから困っているんだけれども。
「清彦ー、一緒に勉強しよう」
 可愛らしく笑う柚香に、曖昧に微笑みかえす。
 試験が終わったら別れよう。来年の五月までの辛抱だ。がんばろう。
「……清彦」
 つんつんっと隣の柚香が俺のふとももをつっつく。
「……やめろ」
 ラウンジだぞ、ここ。
 言うと柚香は頬をふくらませた。
「じゃあ、うちに来て」
 ……ほら、こうなる。

   法科大学院生全体がどうだかは知らない。
 でも、確かに俺はかなり、ギャンブラーでアホーだ。
 試験が終わるのが先か、俺がいらっとして別れを切り出すのが先か。しても意味のないチキンレースを繰り広げている。

 柚香の部屋で、彼女の頭を撫でながらヒロの言葉を思い出す。
「まあ、お前、卒業しても別れられなさそうだけれどもな」
 ……それなー。