図書館に通う習慣は続いている。
 真緒さん達とは、会ったら軽く挨拶する程度の仲にはなった。
 今日もいつもの席で絵本を読んでいた真緒さんは、私に気づくとぱっと華やいだように笑って、大きく左手をふってくれた。
 ぶんぶんっと音がつきそうなぐらいに。
 私は小さく笑ってふりかえす。
 帰るころ、迎えにきた隆二さんも私に気づくと軽く頭をさげてくれる。
 このやりとりが、最近たまらなく嬉しい。
 ああ、ここには、いてもいいんだな、と思えるから。
 学校や叔母さんの家とは違って。
 早く東京に帰りたいけれども、真緒さん達と離れるのは寂しい。そんな風に、思っている。

 とはいえ、まだまだ私が帰れる見通しはたっていない。
 母の手術は無事に成功したが、体調がなかなか戻らず、まだ入院生活が続いているからだ。
 三連休のときなんかにお見舞いに行ったが、母の顔色はやっぱり悪くて、なんだかとっても恐かった。
「大丈夫? 平気? ごめんね?」
 そう言ってくる母に、私が言えることなんてたった一つだけ。
「大丈夫だよ」
 そう言って笑うことだけ。
 帰りたい。
 帰りたい。
 一人でもちゃんと暮らしていけるから、東京に帰りたい。お母さんの傍がいい。
 もっと頻繁にお見舞いに来たいのに。
 そんなことは、言えなかった。
 そんなことを言ったところで、みんなを困らせるだけなのがわかっていたから。
 叔母さんの家に戻る新幹線のなか、ちょっとだけ泣いた。
 帰りたい。
 帰りたい。
 いつになったら、帰れるのだろうか。
 真緒さんは、隆二さんのことを魔法使いだと言っていた。魔法使いが助けてくれたのだと、舞踏会に連れて行ってくれたのだと。
 私も連れ出して欲しい。
 魔法使いに、ここから。
 いま、すぐに。

 朝、下駄箱を見たら泥団子がつめこんであったのは、澪とトイレで話したあの一件から数日後だった。
 さっと血の気が引く。
 辺りを見回す。
 誰もいない。
 通りかかった一年生が、私と下駄箱に気づいてぎょっとした顔をしたが、すぐに視線を逸らして行ってしまった。
 その方が、いいんだけれども。下手に反応されるよりは。
 どうしよう。
 泥にまみれた上履きをひっぱりだす。
 先生にバレたら面倒なことになる。叔母さんにもお母さんにも、知られてしまう。どうにかしなくっちゃ。
 仕方なく、靴下のまま流し場にむかい、上履きの泥を洗い流す。
 雑巾とちりとりを、廊下の掃除用具置き場から借りてくると、下駄箱を掃除した。
 作業をしている私の後ろを、何人かのクラスメイトが通りすぎる。
 みんな、一度ぎょっとしたように私を見てから、それでも何も言わずに通り過ぎていった。
 手伝ってくれるようなひとなんて、もちろんいなかった。
 ようやく、なんとなく綺麗になった、ような気がする。
 雑巾とちりとりを片付けていると、
「あんた、なにしてんの」
 背中に声をかけられた。
 びくっと肩が震える。
 振り返ると、ジャージ姿の澪が仏頂面で立っていた。
 テニス部の彼女は、今日は朝練だったのだ。私よりも先に叔母さんの家を出ていた。今終わったところだろうか。
「上履き、どうしたの?」
 流しに置いたままの上履きを見た彼女に、重ねて詰問される。
「……ちょっと」
「ちょっとなに」
 誰かにやられた、なんて言いたくなかった。言えなかった。
 そんなこと澪に言ったら、叔母さんに知られてしまう。叔母さんに知られたら、お母さんにだって。
 そんなの、困る。
「汚しちゃって」
「なんで?」
 廊下の流し場で仁王立ちになった澪に、次々と尋ねられる。
 そんな私達は一目をひくのか、ちらちらと通り過ぎる生徒達が視線を向けて遠ざかっていく。
 どうしようどうしよう。
 必死に頭を働かせる。
「誰か、が」
「誰かが?」
「……泥だらけのまま、校舎に入ったみたいで。廊下が汚れてて。それを、その、掃除してたら、汚れたの」
 苦し紛れの言葉だったが、我ながらいい嘘だと思った。手に持った雑巾のいいわけにもなる。
「……ふーん」
 澪は私を見下ろすようにして呟くと、
「いい子ちゃんしてるからそういうことになるのよ。廊下なんて汚したやつが綺麗にすればいいんだから」
 ふんっと鼻をならして続けた。
「……うん」
 いいわけにはなったけれども、澪からの評価をまた、下げてしまった。まあ、いまさらだけれども。
「職員室の横」
 はやくどこかに行ってくれないかな、そう思ってうつむいていると、上からつまらなさそうな澪の声が降って来た。
「え?」
「お客様用のスリッパがあるから、それ履いてなさいよ」
「……そういうの、勝手に借りたらまずいんじゃないの?」
「いい子ちゃんねー」
 また鼻で笑われる。
「みんなやってるわよ。そのまま靴下で過ごす方がなんか言われるよ」
 それもそうかもしれない。
「……わかった」
 ありがとう、と小声で続ける。
 澪は一度軽く頷くと、颯爽と教室に戻って行く。
 私は濡れた上履き片手に、教室とは反対側、
職員室に向かって歩き出す。
「ねぇ」
 その背中に、また声をかけられた。
 振り返ると、澪が廊下の真ん中で腰に手をあてて立っていた。
 通りすがりの人が、邪魔そうな顔をしている。
「なんかあったらいいなさいよ」
 真っすぐに目を見て、そう言われた。
 思わず逸らす。力強い瞳に耐えられなくなって。
「……ないよ」
 そうして小さい声で呟いた。
「あったらって言ったでしょう。あんたに何かあったら、母さんに怒られんのあたしなんだからね」
 不満そうにそう言うと、今度は私の返事も待たずに歩き出した。
 何もないし、言えないし、言わない。
 そんなこと、できるわけがない。
 ああ、誰か、ここから、連れ出して。

 この日から、微妙な嫌がらせがはじまった。
 影でこそこそと言うのとは違う。実質的な嫌がらせ。
 ノートが無くなって、机に落書きがしてあって、靴に画鋲がはいっていた。
 そんな程度の、嫌がらせ。
 私が澪に隠せる、そんなレベルの、嫌がらせ。
 嫌がらせをしてるのが誰だかはわからないが、その人はどうも、澪にバレるのは困るようだった。
 だから大きな嫌がらせはない。
 最初の下駄箱に泥が、一番大きな嫌がらせだった。
 授業中、どこかから飛んでくる消しゴムのカス。
 見当たらないペンケース。
 それら全てを澪には隠した。
 そういう意味では、私と犯人の利害は一致していた。
 誰にも言わず、澪にも先生にも叔母さんにも言わず、そっと一人で処理していた。
 だから、犯人は調子に乗ったのかもしれない。
 もう少しやってもいい、と思ったのかもしれない。
 嫌がらせは少しだけ、エスカレートしていった。
 自転車の籠に入っているゴミ。
 机の中に入っている悪口の紙。
 トイレの個室に入っていると、外から乱暴にノックされる。
 上履きの中に避妊具が大量に詰め込まれていた時には、迂闊に捨てることもできず、さりとてそのままにしておくこともできず、地味にこたえた。
 結局、プリントの山に紛れ込ませて捨てたけれども。
 うんざりだ。
 学校が終わると同時に、教室を飛び出し、図書館に向かう。
 それだけを楽しみにしていた。
 もう本当に、私の居場所はここだけだ、と思っていた。

 朝来たら、机の中に入っていた紙。「少しは泣けよ、可愛げがねー。都会人」そんな風に、赤いマジックで書かれていた。
 学校はもう大嫌いだったし、うんざりしていたけれども、不思議と泣きたいとは思っていなかった。
 どこかで、なにかが麻痺しているようだった。
 均衡状態、だった。
 結局、先にいらだったのは、相手側だったようだ。
 その日、いつものように授業が終わると、足早に図書館に急いだ。
 自転車に跨がり、学校の裏を走り抜ける。図書館に行くには、この人通りの少ない、校舎の裏側を抜けるのがはやいのだ。
 いつものように自転車を漕いでいると、
「きゃっ」
 ぴしゃっと、どこかから何かが飛んできて、顔にあたった。水っぽいもの。
「……何?」
 頬についたそれを手で拭うと、黒かった。墨汁の匂いがする。
 きゃははは、という笑い声がした。上から。
 校舎を見上げる。
 誰かが、いる。
 と思った時にはまた、なにか降ってきた。びしゃり、と顔に当たる。
 たらり、と額を何かが伝う。拭うと赤かった。
 絵の具?
 足元には水風船が落ちていた。
 水風船に色水をつめて、落としているようだ。
 ああ、私はいつもこの道を通るから、狙いやすかったんだろうな。
 どこか冷めた頭でそう思った。
 水風船は次から次へと降ってくる。飛び散る。
 それから逃れるように、ペダルを強く、強く漕いだ。
 がりっと嫌な音がする。
 走りにくい。
 びしゃっと背後で水音がする。
 前輪を見ると、タイヤがぺったんこになっていた。パンクしてしまったらしい。
 それでも止まれなかった。
 もう校舎からは離れたけれども、それでも止まれなかった。
 逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。
 ここにいたくない。
 私の居場所に、行きたい。
 強引にペダルを踏み続け、図書館が見えてきた。
 車道から歩道に移ろうとしたところで、失敗して段差にひっかかり、盛大に転んでしまう。
「っ」
 膝を擦りむいた。
 ぽたりぽたり、と頭から色とりどりの水がこぼれおちた。
 自転車を起こすと、引きずるようにして図書館に向かう。
 図書館に行きたい。
 もうそれしか考えていなかった。
 膝が痛い。
 会いたかった。
 真緒さんの姿を見たかった。
 学校の私を知らない人に会いたかった。
 あの底抜けに明るい笑顔が見たかった。
 自転車を引きずって、なんとか図書館の前まできて、
「……え」
 打ちのめされた。
 駐輪場にチェーンがしてある。
 自転車は一台もないし、入り口の明かりもついていない。
 休館日? だってでも今日は、月曜日じゃないのに?
 奥の方には、明かりがついているのに?
 よくよく見ると、入り口に張り紙がしてあった。今日から一週間、書棚の特別整理期間としておやすみらしい。
「……そんな」
 そういえばそんなことを聞いたかもしれない。
 だけれども、すっかり忘れていた。忘れてしまうぐらいに、毎日の生活に疲れていたのだ。
 一気に体から力抜ける。
 その場に座り込みそうになるのをなんとか耐えて、図書館の向かいの神社に移動する。
 それが限界だった。石段に座り込む。
 自転車はすぐ横に倒した。
 膝を抱えるようにして座り、膝に額をつける。
 擦りむいたところが、じんじんと、鈍く、痛い。
「……う」
 心も、痛い。
 なんで、どうして、こんな目に遭わなくっちゃいけないの。
 制服が汚れている。
 墨汁と絵の具の匂いがする。
 自転車はパンクしている。
 図書館は開いていない。
 ぽつぽつと、おあつらえ向きに雨まで降ってきた。
「もう、やだよぉ」
 するり、と本音がこぼれ落ちた。
 そこからはもう、どうしようもなかった。ぽろぽろと、涙もこぼれ落ちていく。
 声をあげるのだけは、なんとか耐えた。
「……お母さん」
 代わりに小さく呟いた。