図書館に行くと、いつもの席で真緒さんが本を読んでいるところだった。
 あの一件以来、久しぶりに見る姿に、ちょっと嬉しくなる。真緒さんがいるということは、隆二さんもいるっていうことだ。
「こんにちは」
 真緒さんにそう声をかけた。
 いつもは図書館で会っても手を振るだけだが、今日は話かけた。
 真緒さんは顔をあげて、ちょっと驚いたように笑った。
「こんにちは」
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
 真緒さんの隣の椅子に腰掛ける。
 彼女が広げているのは、『ビロードのうさぎ』だった。
「どーしたの?」
 小声でそっと尋ねられる。ここで話しかけるなんて、初めてだったからだろう。
「いえ、久しぶりだなーと思って」
「あ、そうだよね。隆二に聞いたよ、この前いないときに、来たんでしょう? ごめんねー。あ、おせんべいありがと! おいしかったー」
「いえ」
 小さく首を横にふる。
「……あの、ここで、本読んでいても、いいですか?」
 そっと尋ねると、
「もちろん!」
 屈託なく頷かれた。
 真緒さんもまた、絵本に戻る。
 自分が持って来た本を読むフリをしながら、ちらちらと真緒さんを眺める。
 ぎゅっと眉根を寄せて悲しそうな顔をしてから、ページをめくり、次にはぱっと華やいだように笑う。
 大変な過去があったみたいなのに、なんでこんな風に笑えるんだろう。
 この世のものでは、ないみたい。
 そんなことをふっと思う。
 浮世離れしているし、だって信じられない。私と同じ人間なのに、そんな風に笑える人がいること。
 それはやっぱり、魔法をかけてもらったからなのだろうか。
 真緒さんはノートを取り出すと、またぐりぐりと何かを書き出した。
 ビロードのうさぎ。本物のうさぎになるっていうのは、つくもがみ? なんて書き込んでいる。
 ノートに書いて満足したのか、そのノートをまたリュックにしまった。
 私が描いた猫が、一瞬こちらを見た。
 ノートをしまってから、ふっと気づいたように真緒さんが私の方を見た。
「ね」
 内緒話をするように、片手を口元にあてながら話かけてくる。
 首を傾げて、耳を近づけた。
「佐緒里さんさ、今、絵本かいたりしているの?」
「え?」
 絵本作家になりたいという話はした。
 でも、それはいつかであって、今書こうというものではなかったのだが。
「あのね、書いたら見せて欲しいな、と思って」
 そう言ってにっこり笑う。
 その笑顔が眩しくて、断るなんてこと、できそうにもない。
「……はい、是非」
 答えると、真緒さんが大きく、満足そうに頷いた。
 そうこうしていると、
「真緒」
 いつものように隆二さんがやってくる。
 私の方からは見えないが、隆二さんの方を見た真緒さんは、きっと華やいだ顔をしていることだろう。
 隆二さんは、隣に座る私に気づくと、ちょっと驚いたような顔をした。
「こんにちは」
 軽く頭をさげる。
「……ども」
 ちょっと嫌そうに頭をさげられた。
 なんでここにいるんだよ、とか思われたのかもしれない。
「どれ、借りるの?」
「これ」
「はいはい」
 慣れた調子で真緒さんから絵本を受け取ると、隆二さんは足早で貸出カウンターに向かって行く。
 真緒さんも、いつものように手早く荷物をまとめると、
「じゃあね、佐緒里さん」
 立ち上がる。
 それを、
「あ、私も帰ります」
 同じように荷物をまとめて立ち上がりながら、阻止した。
 真緒さんがきょとんっとした顔をするが、意に介さない。
 貸出手続を終えて、本を片手に待っている隆二さんのところに、真緒さんと二人、向かう。
 私をみて、隆二さんが少し表情を動かした。どういう意味だかは、読み取れない程度に、ほんの僅かに。
「佐緒里さんも帰るんだってー」
 真緒さんが代弁してくれる。
「ふーん」
 隆二さんは、気のなさそうにそう呟くと、真緒さんの背負ったリュックに本をつっこんだ。
 並んで歩く二人の、二歩後ろを私もついていく。
 図書館からは、お互い反対方向だ。
「それじゃあ、また」
 入り口で軽く、頭をさげる。
「またねー」
 真緒さんが笑いながら言い、隆二さんも無愛想ながら頷いた。
「ねーねー、うさぎのぬいぐるみが、本物のうさぎになるのも、やっぱり、つくもがみなの?」
「……なんの話だ?」
 楽しそうな真緒さんの話を、聞き流すようなポーズをとりながら、それでもちゃんと聞いている隆二さん。
 そんな二人の後ろ姿を眺める。
 あんな風に屈託なく笑える真緒さんが、うらやましい。
 どうしたら、あんな風に笑えるのか知りたい。
 私よりもよっぽど辛い環境にあるあの人が、あんなに笑えるならば、私だって笑えるはずなのに。
 そこまで考えて気がついたのだ。
 あの人にはあって、私にはないもの。
 全てを受け入れてくれる、大切に思ってくれる人の存在。
 隆二さんみたいな人が、私にも欲しい。

 とはいえ、そんな人が突然現れるなんて、夢物語を信じているわけではない。
 シンデレラにはなれないことを、知っている。
「ただいまもどりましたー」
「佐緒里ちゃん、おかえりなさい」
 叔母さんの家で、いつもどおりにするしか、私に出来ることはない。
 こんなことをしていたところで、何も変わらない。
 知っている。
 リビングでアイスを食べながらテレビをみていた澪が、私に気づくとちょっと驚いたような顔をした。
「……なに?」
「……はやいじゃん」
 確かに、今日は二人に合わせて図書館をでてきてしまったら、いつもよりもはやいかもしれない。
「……関係ないじゃん」
 言い捨てると、澪の返事を待たずに二階にあがった。

 物語みたいに、上手くは進まない。
 絵本みたいに、上手くはいかない。
 そんなこと、知っている。
 ならば、絵本の中でぐらいは私の好きにできるはずだ。
 そんなことに、いまさらながらに気がついた。
 使っていないノートを広げる。
 絵本作家になるのは、将来の夢だった。
 だけれども、それはなにも、今書いちゃいけない、っていうことじゃなかった。
 そんなことに気がついた。
「真緒さんに見せて欲しいって、言われたしね」
 言い訳っぽく、呟く。
 なんでもいいから書いて、真緒さんのところに持って行こう。
 喜んでくれるといいな。
 そうすれば、あの二人とおしゃべりするきっかけになる。
 そんな下心もあった。
 隆二さんとしゃべるきっかけに。

 しかし、まあ、実際にやってみようと思うと、これがなかなか難しい。
 そもそも、どうやって書き始めればいいのかわからなかった。
 何から決めればいいんだろう?
 キャラクター?
 ストーリー?
 どうすればいいんだろうか。
 結局ノートに残されたのは、シャーペンでぐりぐり書かれたなぞの猫だけ。
 溜息をついて、ノートを閉じた。
 私に絵本を書こうなんていうのが、そもそも間違いだったのかもしれない。
 どうしたらいいものだろうか。
 こんなこと、誰にも相談できないし。
 もう一つ、溜息をついた。
 結局、私は変われないのだ。