自室にかけもどってきたアリスは、そのままの勢いでベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋める。
「白藤のばかっ」
 ばかばかばかばかばかっと、言葉を枕に叩き付ける。
 勇気を出して言ったのに。なんなのよあの煮え切らない態度っ。
 いつもそうだ。いっつも、お嬢様お嬢様お嬢様って。敬うフリをして、遠ざける。距離を置く。
 子ども扱いされるならまだいい。だって実際子どもだから。それに甘んじるぐらいの分別はある。だからって怒る程子どもじゃない。
 だけど、
「……何を隠してるのよっ」
 最近の白藤は変だ。白藤だけじゃない。シュナイダーも優里も、皆、変だ。皆なにかを隠している。そしてそれはきっと、
「くそ親父」
 のことなのだろう。
 隠し事だけはしないでほしい。
 隠せてないし。
「……顔色、悪かったな」
 あんな顔色で何もないなんて、信じられるわけがない。隠しごとをされたら、素直に気遣えない。具合が悪いなら素直に言って欲しい。せめて。せめてそれぐらいのこと、させてくれてもいいじゃないか。
 お嬢様、なんて呼ばないで。
 そうやって距離をとらないで。
 お嬢様は知らなくていいことです、なんて、そんな顔をしないで。せめてそこは対等でいさせて。
 泣きそうになって、ぐっときつく枕に顔を押し付けた。

 白藤銀次が鈴間屋に来たとき、不謹慎ながらもアリスは嬉しかったのだ。年が近い人がくる、と聞いて。
 だけれども、それを銀次に見せてはいけない、と思っていた。それぐらいの分別はあった。だって彼がここにきたのは、両親を亡くしたから、一人になってしまったから。だから、彼がここに来たことを喜ぶような態度を見せてはいけない、と思っていた。
 最初は少しシュナイダーなんかを手伝いながら、普通に高校生をしていた。いつも暗い顔をして。
 当たり前なのだが、その顔にずきずき胸が痛んだ。この家の中に、そんな暗い顔をした人がいることが悲しかった。みんな真面目に仕事をしていたけれども、鈴間屋で働く人々はみな、明るかったから。そこに一人、暗い顔をした彼がいることが、悲しかった。
 彼はもっと悲しいのだろうけれども。
 母親を失った悲しみは知っている。だけど、そのころから研究バカだったけれども、アリスには一応まだ父親がいた。だから、彼の悲しみを全部わかってあげられない。それが悔しかった。
 でもどうにかして元気になって欲しい。それは家の中が暗いことを嫌がる気持ちと、純粋な心配とがごちゃまぜになった感情だった。
 だからあの日、意を決して、庭の片隅なんかで本を読んでいる銀次に近づいた。大体、そんなところにいないで、家の中にいればいいのに。人のいないところ、邪魔にならないところをさがしてうろついたりしないで。
 銀次はアリスに気づくと顔をあげ、読んでいる本を閉じた。そして慌てて立ち上がり、今とは違う隙だらけの気をつけをした。
「アリスお嬢様?」
「白藤銀次」
 アリスは彼の前に立つと、その顔を見上げながら、人差し指を突きつけ、告げた。
「私、お兄ちゃんが欲しかったから、私のこと妹って思ったっていいんだからね!」
 言い終わったあと、いやそれなんか違うだろ、と思った。案の定、
「……は?」
 銀次が怪訝そうな顔をしている。
 いや違う、本当は、貴方は一人じゃないんだからね、的なことが言いたかったのになんだそれ妹って。ああ、自分はバカなんだな、と思った。対人スキルが無さ過ぎる。
 泣きそうになった。
 それでもいまさら逃げるわけにもいかなくて、恐る恐る伺うように銀次の顔を見た。
 アリスの予想に反して、彼は小さく、本当に小さくだけれども笑っていた。それから、それから何度も聞くことになる声で告げた。
「ありがとうございます、アリスお嬢様」
 それで恋に落ちた。
 とても簡単に。
 その顔に魅せられた。もっと見ていたいと思った。
 その日の笑顔はすぐに消えてしまったから、その後しばらくアリスは彼につきまとった。たまに鬱陶しそうな顔もされたけど、基本銀次は温かく受け入れてくれた。楽しかった。
 あの頃、二人の関係は対等だった、と思う。
 そりゃあ多少銀次の方に、鈴間屋の娘であるアリスに対する気遣いが感じられたけれども、それでも対等だった。一人の人間として、アリスに向き合ってくれていた。
 ただ、手続やレポートが途中だったため、向こうの大学院に行き、戻って来たときには銀次は変わっていた。高校も卒業して、すっかり鈴間屋の使用人になってしまっていた。
 アリスとの間に、明確な線を引くようになっていた。
 あのときは、すごく悲しかった。
 せめて、昔みたいに、妹を呼ぶようにアリスお嬢様って呼んで欲しい。それが無理なら、笑っていて欲しい。
 恋が叶わなくたって構わない。
 だけどせめて、笑っていて欲しい。あのときみたいに。屈託なく。
 多分、それは贅沢な望みなのだろうけれども。誰かの笑顔を望むなんて、贅沢なことなのだろうけれども。
「……笑って」
 枕に片頬を預けながら、アリスは小さく呟いた。