「引っ越すぅ?」
 話があるから、と集まった美作さんの部屋で、話を聞いた峯岸がすっとんきょうな声をあげた。
 私? 私は、突然のことに何も言えなかった。
 引っ越す? 美作さんが? いなくなってしまう?
 っていうか、なんで? 笹原さんのせい?
「うん。急な、ことなんだけどさ」
 困ったように鼻の頭を掻きながら、言葉を選ぶようにして美作さんは続ける。
「なんかさ、母親の具合が悪いらしくてさ。うち、父親いないし、一人っ子だし。傍にいてやりたいんだ。だから、実家に戻ろうと思って……」
「美作、実家どこだっけ?」
「福岡」
「とおっ。そっか、じゃあ、通うのも難しくなっちゃうね」
 しゅんっと峯岸が呟く。
「うん、そうなんだ。……本当、ごめん、急なことで。三島さんも」
「いいえ」
 声をかけられて、慌てて首を横にふった。大家らしい顔を、どうにか引っ張ってくる。
「だって、お母様心配ですし。行ってあげられるなら、傍にいてあげた方がいいと思います」
「……うん」
 ありがとう、と美作さんが頷く。
「……あの、笹原さんのお話ってそれだったんですか?」
「え、あ、うん、そう。母とは一応、定期的に連絡とってたつもりなんだけど、母は俺に体調悪いの隠してたみたいで、全然知らなくって。柚香とは地元が一緒で、家族ぐるみの付き合いで、柚香の母親伝いに聞いたんだ。母のこと」
「なんで来たの、その人。電話でいいじゃん」
 峯岸の疑問に、
「いや、俺、あいつのこと着拒してて」
「は? なんで? 幼なじみなんでしょ?」
「……幼なじみなんだけど、元カノなんだよ」
「あー」
 元カノ。美作さんの口からでたその言葉に、場違いにも心臓が跳ねた。そうか、あの人、美作さんと付き合っていたんだ……。
「俺がアクセサリー作るきっかけになった元カノが柚香で」
「あー、なんか女にのせられて作り出したって言ってたもんね」
「だから、彼女もデザフェスに出展してたんですね?」
「そうそう」
「なんで別れちゃったの? 三島の話では美人だったらしいじゃん」
「美人関係ある? まあ、なんていうか作品の方向性の違い」
「方向性……」
 なに、それ?
「はぁ? どこのバンドよ」
「いや、俺はさ、俺にしか作れないものが作りたくって、できれば既製品はあんまり使いたくなかったんだ。原価とか売れ筋とか関係なく。柚香はどっちかっていうと、既製品のパーツを使ってでもいいから、売れる物を作りたい、商売をしたいっていうタイプで。それでなんか、色々揉めて、喧嘩別れ、的な」
 これまた随分と、クリエイティブな理由だ。もうあまり自分を卑下しないぞ、と誓ったものの、なんだか憂鬱になる理由。そんな理由で別れたこと、今までもないし、これからもきっとないだろう。
「作品か商品かでわかれたの?」
「簡単に言うと、そう」
「……めんどくさ」
 峯岸が嫌そうに呟いた。峯岸は、こういう理由、嫌いそうだもんな。人は人、自分は自分とかいって。
「まあ、それで俺に連絡したいけど、連絡つかないし、どうしたもんかと思っている時に、折り紙アクセサリー見つけて、来てみたんだって」
 色々振り回してごめん、と美作さんが頭を下げるから、慌てて声をかける。
「え、大丈夫ですよ? 連絡ついてよかったですね」
「いやでも、我が侭だなーと思って。引っ越しも急だし」
「だって、それは仕方のないことでしょうに」
「ありがとう。……我が侭ついでにさ」
「はい?」
「mine meのことも、M&Bのことも、そのままにしてもいいかな」
「そのまま?」
「納品しても、いいかな。Insulo de Triで扱ってくれるかな、ってこと」
「ああ」
 美作さんが引っ越してしまう事実は受け止めても、それをとりやめることまでは考えていなかった。
「当たり前じゃないですか」
 今だって、遠方から納品されている方もいらっしゃるのだ。
「今後も扱っていていいのならば、是非」
「……うん、ありがとう」
 美作さんはちょっとだけ泣きそうな顔で頷いた。
「前みたいに一日中製作にあてることが出来なくなるから、納品数は減っちゃうかもしれないけど」
「構いません」
「……峯岸さんも、いい? 描いた絵を送ってもらうとか、そういうことになるかもしれないけど」
「いいに決まってんじゃん。今日日、ネット使えば連絡とるのも容易だしね。せっかく軌道にのったのに、美作のせいでmine meのことやめちゃうなんて、そんなの絶対に許さないんだから」
 いつもの高飛車な言い方。だけど、私も美作さんもそこににじみ出る優しさを、もう感じ取ることができる。
「うん。本当に、ありがとう」
 美作さんは、ぺこりと頭をさげた。

 詳しい日程が決まったらまた報告するから、今日のところはこれで、とその日の話は終わった。
「三島」
 美作さんの部屋をでて、お互い家に戻ろうと、峯岸の家の前まで歩いて来たところで言われた。
「このままでいいの?」
 じゃあね、とあげかけた手をそのままに、真面目な顔をした、峯岸を見る。
「……何が?」
「美作のこと」
「そりゃあ、寂しくなるけど。だけど、仕方がないじゃない? ご家庭の事情なんだし」
「そうじゃなくって!」
 峯岸はなんだか苛立ったように声を荒らげると、
「引っ越しのことは仕方ないにしても、なんにも言わないでいいのかってこと!」
 荒らげた声のまま言われた。
 一瞬、呼吸が止まった。
 ああ、そうだ、峯岸だって知っているのか。私が美作さんが好きなこと。
「これで最後になっちゃうかもしれないんだよ?」
 言われて改めて、彼がいなくなるという事実を突きつけられる。心に喪失感が芽生えて、泣きそうになる。
「だけど」
 それでも、さっきの今で告白とか考えられない。そんなクリエイティブな理由で別れる恋人関係を築いていた人に、凡人の私が何を言えばいいのか。
 それに、言ったって、意味がないことじゃないか。美作さんが好きなのは、峯岸、あなたなのだから。
 さすがにソレは言えなくて、だってだけで口ごもる。
 だけど、峯岸は察したらしい。
「三島の言いたいこと、わかるよ。三島がそのまま秘めておきたいっていうのなら、それでもいいと思うよ。だけど、言っておいたら気分がすっきりすることとか、あるかもしれないじゃん」
 いなくなっちゃうんだから、と峯岸はもう一度言った。
「ここで言わないと、三島、先に進めないかもしれないよ」
 言われて言葉につまる。
 確かに、ここで言わなかったら、言わなかったのをいいことに、このままずるずると思いを引きずるかもしれない。
「……うん」
 私は小さく頷いた。
「玉砕してくる」
 そのままくるっときびすを返して、再び美作さんの家の方に向かう。
「うん、がんばって」
「ありがとう」
 恋敵に応援されるなんて、なんてシュールな光景。変な三角関係だ。
 思わず笑ってしまうほどに。
「どうしても悲しかったらうちにおいでよ、珈琲いれてあげる」
 峯岸がおどけてそんなことを言う。それこそわけがわからない。
「大丈夫、家に帰って一人で泣くから」
 くすっと笑うと、峯岸を片手で追い払う。恥ずかしいんだから早く家に入りなさい。
 峯岸はしぶしぶといった体で頷くと、
「じゃあ、おやすみ」
 軽く片手を振って、家の中に入っていった。
「おやすみ」
 閉まる扉に挨拶すると、美作さんの家の前に戻る。
 深呼吸して、震える手でチャイムを押す。
「はい?」
「三島です。すみません、ちょっとだけ、いいですか?」
 再び入った美作さんの部屋。
「あ、玄関でいいです」
 奥に案内しようとする美作さんを片手で制する。靴を脱いだり、帰るのに時間がかかるようなことをするのはいやだ。気恥ずかしいから。
「そう?」
「はい」
 唇を湿らす。
 こういうのは、勢いだ。
「一つ、言っておきたいことがあって」
 美作さんの目が、すこぅし細くなる。多分、彼だって私が何を言おうとしているのか、わかっているだろう。
「私は、美作さんが好きです」
 はっきりと、彼の目を見て告げる。そして美作さんが何か言おうとするのを片手で制した。まだ、終わっていない。
「感謝、しているんです。美作さんが来てくれて。峯岸ともよりいっそう、仲良くなれたし、Insulo de Triの売り上げもあがってよかったし、MIMIMIも楽しいし、それになによりも」
 どうにかどうにか頑張って、強張った唇の端をあげる。
「あなたは、私に自信をくれました」
 才能なんてないと卑屈になっていた私を、救い上げてくれたのは美作さんだ。勿論、峯岸もだけど。
「本当に、いままで、ありがとうございました」
 頭をさげる。これは、告白というよりも、お礼の挨拶になってしまったな、と胸中で苦笑する。だけれどもこれが、私の偽らざる気持ちだ。
「……ごめん」
 下げた頭に言葉がふってくる。
「好きな人が、いるんだ」
 付け足された言葉に、ぷっと吹き出してしまう。
 顔をあげると、そんな私を怪訝そうに美作さんが見ていた。
「知っていますよ」
 それが誰なのかも。
「ずっと、美作さんを見てましたから」
「……ああ」
 そこで美作さんはなんだか苦笑いをした。
「この狭い建物で、本当、奇妙なトライアングルだったね」
 戯けたようすで言われた。それに深く頷く。
「……こんなこと言っちゃいましたけど、納品やめるとかいいませんよね?」
 はっと大事なことに気がついて慌てて問いかけると、
「あたりまえ」
 屈託なく笑った。
「よかった、じゃあ、これからもよろしくおねがいします」
「こちらこそ」

 晴れ晴れとした気持ちと、悲しみを抱えて家に戻る。玄関のドアノブに見慣れぬスーパーの袋が入っていた。中をのぞくと、蒸気で目元を温めるタイプの、アイマスクが入っていた。あとメモ。
 メモには、腫れた目じゃ明日のお仕事にさしさわりますよぉーとまるっこい字で書かれている。あと、猫の絵。
 隣の家を見る。
 峯岸ってば。
 思わずくすっと笑う。ああ、本当に、いい隣人を持てた。
 ありがたくそれを受け取ると、泣くために家の中に入った。