間 三隅美実と悪夢


 影が迫ってくる。近寄ってくる。その顎をあけ、周りのものを喰らい尽くしながら迫ってくる。自分を喰わんとする。
 悲鳴をあげながら、やめて、懇願する。叫ぶ。
 影が笑う。
『何を他人事のように』
 やめてやめて。
『おまえだって化物のくせに』
 影の言葉。
 視線を落とすと、自分の手が真っ赤に染まっている。血の臭い。
 足元に転がる誰かの体。死体。
『おまえがやったくせに』
 転がる死体。見開いたままの切れ長の瞳が、二対。
『化物のくせに』
 制服を身に纏った体。
 やめてやめて。
『いい加減、人間のするフリをやめろ』
 泣きながら首を横に何度もふる。
 ごろり、と転がった体。見たことのある、顔。彼は、確か……。
『なぁ』
 影が告げる。咎人の名前を。
『三隅美実』
 喉が張り裂けるぐらいの悲鳴をあげた。

 跳ねるようにして起き上がる。自分の悲鳴で目が覚めた。ベッドの上、布団を握りしめる。
「……夢」
 小さく呟く。
 美実はゆっくりとその手を開いた。
 いつも通りの白い手に、安堵する。姿見に映った自分の姿。真っ青な顔をしている。
「ミィ」
 ドアが一度ノックされ、開かれる。
「……ミナ姉」
 寝間着姿の姉が、労るような顔をして立っていた。ゆっくりと近づいてくる。
「ごめん。起こした?」
「そりゃあ、起きるわ。あんな大声だして。家庭内暴力とか言われて、ご近所に通報されたらどうするの。防音、しっかりしてるからいいけど」
「ミィ、大丈夫?」
 後半おどけて言う皆子の後ろから、焦ったような潤一の声がする。
「レディの寝室に入らない。あんたはいいから戻りなさい」
 皆子が振り返らずに答える。
「いっつもそれだ!」
 潤一の不満そうな声。
「ジュン兄も、ごめんなさい」
 小さく美実が言うと、
「ミィが大丈夫ならいいんだ」
 潤一の優しい声がして、足音が遠ざかる。
「ミナ姉も、大丈夫」
 美実の言葉を皆子は無視して、
「いやしかし眠いわ」
 美実のベッドに潜り込む。
「ミナ姉」
 困って名前を呼ぶと、
「ミィ」
 優しく名前を呼ばれて、手を引かれる。素直に横になる。
「……もう子どもじゃないんだけど」
 小さいころ、怖い夢を見た時に泣きつくと、皆子はいつも一緒に寝てくれた。
「そうねー」
 流石に狭いわね、と呟く。
「ミィ、学校楽しい?」
「別に」
「そう」
 皆子が少し笑う。
「でもちゃんと行ってるじゃない」
「仕事だもん」
「前の学校はさぼってたのにね」
「仕事じゃなかったから」
 くすくすと皆子が笑う。
「ミナ姉」
「んー」
 皆子が一度あくびをする。
「ミナ姉は、わたしが学校に行ってたら嬉しいの?」
「私も、ジュンもね、ミィが普通にしててくれたら嬉しいの」
 もう一度あくび。低血圧で朝が苦手で、寝起きの悪い彼女は、本当に今眠そうだった。
「ねぇ、ミィ」
 半分閉じかかった目蓋で、皆子が笑う。
「いつまでも生咲にしばられてなくていいんだからね。ちゃんとソレを制御して、認められて、そしたら出ていいっていいんだよ。あんたは私達とは違うもの。生咲にとらわれること、ないのよ?」
「……行かないよ」
 皆子がゆっくり伸ばした手が、美実の額を撫でる。
「ミィ」
 ゆっくりと目蓋が閉じる。
「私はね……」
 その先は聞けなかった。
「……ミナ姉?」
 小さく名前を呼ぶと、返ってきたのは寝息だった。
「寝るのはやい」
 小さく呟く。
 これではただ単に、ベッドが狭くなっただけじゃないか。目の前に落ちている皆子の手をそっと握る。
「出て行かない」
 出て行けない。生咲から出て行って、それ以外の生き方を知らない。
 小学生だったあの時、生咲に初めて訪れて、そこで生活するようになったあの時から、
「わたしは生咲の人間なの」
 出て行きたくない。
 もし仮に、出て行くことがあるとするならば、
「……主様のところだよ」
 泣きそうになってきつく目を閉じる。
 握った手を額につけて、眠れるように努力した。