体調が悪いから、と告げ、一限が終わった段階で早退した。
 授業が全部終わってからでもいいかな、と思ったが、授業中不安が首をもたげて来た。
 このお守りはどこまで効くのか? いつまでも本当に見えないのか? このお守りを持っていても襲われたらどうすればいいのか? ミスもいないのに。
 いてもたってもいられなくなって、帰ることにした。
 もしまたあんな大量の影を見せられたら、正気でいられる自信がない。授業中に影が見えて叫ぶ自分。恐らくそれは、気が狂ったようにしか見えないだろう。クラスのみんなから奇異な目で見られる。それは身近だからこそより、恐怖を煽った。
「透史くん、大丈夫?」
 心配そうな弥生に
「風邪かな。ちょっと寝れば治ると思うから」
 嘘をつく小さな罪悪感。
「ノート、とっといてあげるね」
 弥生が笑う。
「うん、ありがとう」
 親切な彼女を騙して、ミスの元に向かうのだ。

 以前、ミスを尾行した時に、彼女は駅前のマンションに消えていった。ということは、きっとあそこが彼女の家なのだろう。
 そうあたりをつけて、マンションに向かうエントランスまできたところで、途方にくれた。
 インターフォンを見ながら、首を捻る。
 部屋番号がわからない。
 片っ端から鳴らしてもな、と思案していると、
「何をしてる」
 冷たい声を背中にかけられる。
 振り返ると、バスケットの時の男性がいた。
「あ、ミスの……」
 買い物にでも行っていたのか。ビニール袋を片手に持った男性は、不愉快さを隠そうともせず、
「高校生はまだ、学校じゃないのか?」
 冷たく問いかけてくる。
「あ、えっと、三隅さんに」
「ミィに? ミィだって学校だろ」
「いや、あの授業始まる前に帰っちゃって」
「ミィが?」
 またさぼりか、と小さく呟く。
「あ、いや、さぼりかどうかは。あの、今日教室に入ったら、黒い影が見えて、たくさん」
「影?」
「それで、三隅さんが、これ持ってればいいって渡してくれたんですけど、どうしたらいいかわからないし」
 言いながらポケットからピアスを取り出す。途端に、男の顔色が変わった。
「それっ」
 ピアスを握った手ごと引っ張られる。
「ミィのっ」
「え、はい」
「っち」
 端正な顔に似合わない舌打ちを一つ。それから、鍵でエントランスの自動ドアを乱暴にあけた。
 あけかかった自動ドアをこじあけるようにして、滑り込む。
 ボタンを叩くようにして、エレベーターを呼ぶ。
 あっけにとられて透史が見ていると、
「何してるっ」
 怒鳴られて、慌てて閉まりかかったドアに滑り込んだ。
 ようやく来たエレベーターに飛び乗り、閉まるボタンを苛立ったように何度も押す。
 斜め後ろに立って、その姿を見ながら、透史は居心地の悪さを感じた。
 このピアスはミスから渡されたものなのに、なんで俺が怒られるような空気なんだよ。舌打ちしたいのは、こちらの方だ。
 最上階につき、開きかけたドアから潤一が飛び出る。そのあとを慌てて追う。
 慌ただしく鍵をドアにさしこみ、扉を開ける。
「ミィっ」
 靴を脱ぎ捨てて、部屋にあがる男性。透史は少し躊躇ってから、部屋にあがった。
「お邪魔します……」
 部屋の中は電気がついていなかった。
 玄関の見えるところには、ミスのローファーは置いてない。
 リビングまで出ると、全ての部屋のドアが開け放たれた状態だった。
「三隅さん、いないんですか?」
 声をかけると、きっと睨まれた。
「君よりはやく、学校を出た。そうだな?」
 詰問される。小さく頷く。
 再び、舌打ちが聞こえる。それから、ぐぃっと制服の襟元を掴まれた。顔を近づけた男性が、その端正な顔をしかめて、吐き捨てるように告げた。
「ミィに何かあったらお前のせいだからなっ!」
 それだけいうと、投げ捨てるように透史から手を離す。よろけて、ソファーに倒れ込む。そんな透史には構わず、男性は駆け足で部屋を出て行った。玄関のドアが閉まる音がする。
「……なんだよ」
 わけがわからない。こっちは巻きこまれただけなのに。
 軽く咳き込みながら、襟元を直す。
 右手に握ったピアスを見た。
 これが一体、なんだというのだ。
 ソファーに腰をかけ、ひとつ、ため息をついた。

 がちゃり、と玄関が開く音に、透史は立ち上がった。
 男性が出て行って、どうしたらいいものかわからず、三十分ほどずっと座ったままだった。
「三隅さん」
 男性に手を引かれるようにして歩いて来たミスは、どこか疲れたようすに見えた。
 のろのろと顔をあげると、透史の姿をみて小さく唇を動かした。なんと言ったのかはわからない。
「悪いけど、そのピアス、ミィに返してもらえるかな?」
 さっきの剣幕は薄れ、男性がいう。
「あ、はい」
 素直に右手に握ったそれをミスに返す。
 ミスは黙って受け取ると、緩慢な動作で耳に戻した。それからゆっくりとソファーに座り、そのまま上体を倒す。
「ミナには連絡した。すぐに戻ってくるだろうから、そこから遠慮なく怒られろ」
 ソファーに倒れ込み、目を瞑るミスに潤一が言った。
 ミスは返事をしない。
「さっきは、怒鳴って申し訳なかった」
 男性が透史に向き直り、頭を下げる。
「君の分のお守り、ちゃんと今から作るから。時間、平気?」
 尋ねられて取りあえず頷く。本来ならばまだ授業中だ。
「待っていて」
 それだけ言うと、男性は一つの部屋に入る。ドアが閉まる。
 どうもこの人達は説明が不十分だ。っていうか、名前は?
 そう思いながら、ソファーから少し離れた床に腰を下ろした。
「……どうしてきたの?」
 ミスが天井を向いたまま、呟いた。
「ピアス、どうしたらいいのかと思って」
 他にも色々わからなかったし。
 ぐったりとして、顔色の悪いミスを見る。
「……あの、俺のせい?」
 小声でおそるおそる尋ねると、
「わたしが迂闊なだけ」
 淡々と、言葉が返って来た。
「でも、よくわかんないけど……ピアスがなかったからなんじゃ?」
「それは、まあ、そうなんだけれども」
 ミスが言葉を切る。少し頭が動き、髪の隙間からピアスが見えた。
「渡したのはわたしだから」
 沈黙。
 小さく透史は身じろぎする。この状態で何を、どうすれば。
「あの」
 気まずさから逃れるように、ミスに声をかける。
「ピアスないと、何がだめなの?」
 聞いておきながら、答えは返ってこないだろうと思った。
「わたしはね」
 けれども、意外なことにミスは喋りだした。なんとなく、姿勢を正す。
「異界に自由に出入りできるの。というか、異界とこちらの世界に、同時に存在しているの」
「……は? い、異界?」
 急にゲームっぽくなったけど……。
「そう、こちらに似てはいるけれども、違う世界。聞いたことない? あっちの世界とか、こっちの世界とか」
「あの世的な?」
「そう、わかるでしょう? 呪いのピアノ、塀の続く空間、深夜のバスケット、そして今日の……」
「黒い、影」
「そう。幽霊とかお化けとか妖怪とか、いわゆる怪異というもの」
 うちの部長が、好きなやつだ。
「異界……あっちの世界には人間じゃないものがいる。妖怪だとか化物だとか幽霊だとか、言われるものが。それがこちらに顔をだしたとき、こっちの世界では怪異として認められる」
 ふぅ、とミスが一度ため息をついた。
「というのが、一般的な認識」
「い、一般的……?」
 怪異に一般的もへったくれもないと思うんだが。
「生咲の人達をはじめ、この職業についている人達はそう認識しているみたいだけれども」
「ちょ、ちょっと待って、きさき? この職業?」
「生咲は、ミナ姉たちの苗字」
「あ、あの二人」
「そう。そして、職業は……、お祓い」
「あー」
 なんか、すっごい納得できた。意味がわからないけれども、それは今さらだし。
「みんな、怪異は異界からこちらにきたものだと思ってる。でも、厳密には、それは正確ではない。あれらは、異界とこちらに同時に存在しているの。少なくとも、わたしにはそう見える。異界もこちらも、両方見える」
「同時にって」
 異界と言われて透史にわかるのは、あの塀がどこまでも続く場所だ。あの塀が続く場所と、透史が知っている普通の道に、同時に存在している?
「子どものころは、みんなが同じように見えてるんだと思ってた。ねぇ、例えばこのテーブル」
 ほんの少し視線を動かし、ミスが透史の目の前にあるテーブルを指差す。
「どう、見えてる?」
「どうって」
 透明の硝子板を天板にした、ちょっとおしゃれな、小さめのテーブルにしか見えない。
「わたしにはね」
 ミスはまた天井を見た。
「君のいう硝子の天板の小さなテーブルと、小型の鬼が」
「鬼ぃ?」
 ちょっと身をひき、テーブルを見る。鬼ってなんだ鬼って。
「ねっころがっている、紫色の、大きめのテーブルが一緒に見えるの」
 身をひいたままテーブルを見る。鬼も、紫色にも、大きめにも見えない。一つのものが二つに見える。それもまったく別のものに。
「……不便じゃないの?」
 怖いとかよりも先にそう思った。二つ違うものが見えるなんて混乱しそう。
「気づいた時にはこれがあたりまえだったから。何が異界のもので、何がこちらのものか、理解できるまでは変な子どもとして扱われていたけれども」
 それは、少しだけ想像出来た。素直な子どものころ、ミスが見たままを言ったら、大人には、他人には、嘘つきか、変人にしか思われなかっただろう。
「親は……、親も、気味悪がっててね。知り合いの伝手を色々辿って、生咲にわたしを預けたの。そこで何がこちらのもので、何が異界か教えてもらった。小さいころはふらふらと気づかずに異界に入り込んでしまっていた。今でも、気を抜くと異界に入ってしまう」
 左手をそっと動かし、彼女は自分の耳に触れた。
「だからこのピアスで、見える異界を、聞こえる異界を、少しおさえているの」
 完全には消せないけれども、と呟く。
「じゃあ、それがないと」
「うっかり異界に迷い込んでしまった、それだけ」
 ミスは腕を顔の上でクロスさせた。
「あなたが悪いんじゃない。わたしが、うっかりしていただけだから」
 どこか投げやりに呟く。
「でも」
「本当に気にしないで。どうせわたしは」
 小さくミスが何かを呟いた。
「え?」
 聞き取れなくて問い返す。
 返事はない。
 再び訪れた沈黙に、どうしたものかと視線をさまよわせていると、
「あー」
 ミスが小さくいやそうに呟いた。
 がちゃり、ばたり、と玄関から大きな音がする。
「……帰ってきた」
 溜息まじりにミスがいうのと同時に、
「ミィーー!」
 怒鳴るようにして、この前のメガネの女性が入って来た。
「ミィっ!」
 ソファーの真横にずかずかと進んで行くと、
「あんたはどうしていつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもそうなのっ! いいかげんにしっかりしなさいっ!」
 顔を覆ったままのミスを怒鳴りつけた。
「もっと自分を大切にしなさいこのばかっ!」
 眉を吊り上げて怒鳴る、その姿に圧倒され、透史はぽかんと口をあけるだけ。美人が怒ると、ド迫力だなぁ。
「いつまでもそんなんでどうするの! どうせまた諦めようとしてたんでしょう。どうしていつもそうなのっ!」
「……ごめんなさい」
 ミスが呟く。
「またそうやって口先だけで謝るっ」
 それを女性はあっさり斬り捨てた。
「美実」
 愛称ではなく、丁寧に名前を呼ぶ。女性はソファーの横に座り、ミスの顔を覗き込むようにして告げた。
「お願いだから、もう自分を見捨てるような真似をしないで」
 少し、震えた声。
 ミスは黙っている。それでもほんの少し、こころなしか、その顔が頷いたように見えた。
 女性はそんなミスの頭を一度軽く撫でて、立ち上がる。透史の方に振り返ったときには、この前と同じ綺麗な顔に、綺麗な笑みを浮かべていた。
「お見苦しいところをお見せしてごめんなさいね」
 そのあまりの変わり身の早さにも、少しあぜんとしながら、
「あ、いえ」
 なんとかそれだけ返す。
「怪異が見えてしまったんですって?」
「はあ」
「怖かったでしょう」
「あ、いや、まあ」
 平気です、とは言えなかった。怖かったとも、恥ずかしくて素直に言えないが。
「ジュンがお守り作ってるんでしょう? あ、あの無愛想な男の方ね?」
「って、言っていました」
 お守りを作るっていうのが、なんのことだかよくわからないけれども。
「うん、じゃあ、とりあえずそれを待とうか。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「あ、おかまいなく」
「私が飲みたいだけだから。じゃあ、コーヒーでもいい?」
 小さく頷く。女性は微笑み、振り返る。ソファーのミスに向かって、
「ミィは?」
 問いかけるが、返事はない。
「ミィ?」
 返ってきたのは小さな寝息だった。
「……寝るか、普通ここで」
 皆子が呆れたように呟く。
「ごめんなさいね、困った子で」
 顔だけ透史に向けて言われるから、
「いいえ」
 首を横に振った。さっきの顔色を見ていたら、とても休むななんて言えない。あんなに真っ青で。いつも白いけれども、それとは違う。
「まあ、寝不足もあったんだろうけれども」
 苦々しく呟きながら、女性がソファーの端にあったブランケットをミスにかけた。
「じゃあ、コーヒー、いれてくるね」
「あ、ありがとうございます」
 さっきとは違い軽い足取りでキッチンに向かう皆子。
 腕で顔を覆うようにしたまま、ミスは眠っていた。
 さきほど、ミスから聞いた話を脳内で再生する。
 異界と同時に存在するミス。ミスには透史に見える黒い影も、異界に同時存在しているように見えるらしい。
 朝、ミスから現れた黒い影。
 化物だから、と言ったミスの、少し泣きそうに聞こえた声。
「……化物?」
 小さく呟く。
 ミスはあの黒い影と、同じ存在? 異界に同時存在しているという前提からすれば、そう考えられる。
 ミスから現れたのも黒い影。
 でも、さっきピアスを持っていたときも、ミスの姿はかき消されることなくちゃんと見えた。他の黒い影は薄れたのに。
 それに、透史に見える怪異とやらは、全部黒い影にしか見えない。ミスの口ぶりから察するに、ミスにはきっと他のものにも見えるのだろう。
 けれども、ミス自身が黒い影に見えたりしない。
 こんなこと考えてどうするんだろう、と頭のどこかで思う。お守りとやらをもらったら、もうミスには関わらない方がいい。そちらの方が安全だ。
 頭の冷静な部分はそう告げる。
 でも、心に引っかかっている。
 いつも、クールで無表情のミスが見せた、泣きそうな顔とか。耐え忍ぶように引き結ばれているあの赤い唇を、笑顔の形にさせてみたい、と心のどこかで思う。
 小さくため息をついた。俺は一体、何をしているのだろう。そんなこと、できると思っているのだろうか。