「おまたせ」
 しばらく考えていると、コーヒーカップをふたつ持った女性が戻って来た。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
「お砂糖とかミルク、いる?」
「あ、大丈夫です」
 本当は、砂糖やミルクをいれた、多少甘くしたコーヒーの方が好きだった。けれども、この場でそんなお子様な要求をすることが、躊躇われた。
 一口、口をつける。やはり苦い。
 皆子はテーブルを挟んで、透史の向かい側に座る。
「なんかごめんなさいね」
 なんて返せばいいのかわからなくて、曖昧に笑う。女性は小さく微笑むと、
「遅ればせながら。私は、生咲皆子」
「生咲さん」
「皆子でいいわよ」
「いや、でも」
 そんな初対面の、年上っぽい美女を名前呼びするわけには。
「もうひとりも生咲だから。生咲潤一」
「ごきょうだいですか?」
 そういえば、目元が似ていた。
「従姉弟。私の方が一個上」
 皆子が笑う。よく笑う人だ、と思った。誰かさんとは違って。
 皆子は、メガネを外すとテーブルに置く。
「君は、石居透史くんね」
「あ、はい。……あれ、名前?」
「ミィに聞いた」
 微笑まれると、そうですかとしか言えない。ミスが自分のフルネームなんて覚えているわけなさそうだけど、実際彼女が知っているので覚えていたのだろう。意外だ。
「あの、三隅さんとは?」
「姉と兄みたいなものなのね。ミィは、色々あって。子どものときから、生咲家に預けられているから」
 ああそういえば、さっきそんなことを言っていた。
「たぶん、だれもちゃんと説明してないわよね。君の身に起きたこと」
「……はい」
 小さく頷く。何が起きているのかよくわかってないから、説明してくれるのならば、大歓迎だ。
「端的に言うとね、石居くん、君は幽霊なんかが見えるようになったわけ」
 本当に端的に、少し早口で言い切った。
 ああ、なんかもう、うっすらそんな気はしてたけど。
「そう、ですか……」
 額に手を当ててため息をつく。
「あら、思ったよりすんなり受け入れた」
 驚いたような皆子の声。
「だって、バスケもそうですけど、他にもあんなに変なものをたくさん見せられて……信じない方が無理です」
「そっか。それに、部活で七不思議調べているんだっけ? なら、余計信じる下地はできていたのよね」
 目を細めて透史を見ながら、皆子がつぶやく。
「私達が異界と呼んでいる世界がある。この二つは基本的に交わること無く存在している。まあ、ミィは違う風に認識しているらしいけど、とりあえず便宜的に平行世界のようなものを想像して」
 ここまではおっけー? と確認される。小さく頷いた。
「一応」
「ただごく僅かに、接しているポイントがあるの。そこから異界のモノが入り込んで来た場合、それがこっちでいう妖怪や幽霊」
「バスケットの相手とか、今日の影みたいな……」
「そう。バスケットの相手、この前は見えなかったんでしょう? でも、たぶん今なら視えるんじゃないかしら」
「なんで……」
「霊感ってね、霊的なことに接することで目覚めたりするから。君は、ここ最近何度か出遭っているでしょう?」
 皆子がぴんっと指を立てる。
「呪いのピアノをミィが弾いてるところに入り込んだでしょう? それと、バスケット。それから」
 一つ言うたびに、その細い指が伸びる。三本たったところで、
「あの、塀のところですか?」
 透史から尋ねる。
「そう。あれはね、本当に異界なの。厳密には異界の入り口みたいなものね。普通は人が入ったりしないんだけど、それでもたまに人が入り込んでしまうことがあるの。それが神隠しなどと呼ばれるもの」
「神隠し……」
 あれ、もしかして、俺、あの時結構やばかったんじゃ?
「君はたまたま、ミィのあとをついていたから入り込んでしまっただけで、ミィが気づいたからことなきを得たって感じね」
「……はぁ」
 想像外のことばかりで、だんだん頭が痛くなってきた。
「そんなに心配しないで」
 よっぽどひどい顔をしていたのか、皆子が安心させるように笑う。
「ジュンがお守りを作ってくれてるから。それさえ持っていれば、もうこんなに変なことに巻き込まれたりしないわ。自分から、首をつっこまなければね」
「それが、難しいんですよね……」
 自分のところの怪異な部長を思って一つため息。
「でも、まあ、気を付けます」
 どう気をつけるのかわからないけど、あんまり七不思議とかには近づかないでおこう。
「そうしてちょうだい」
 皆子がゆっくりと微笑んだ。
「……ねえ、ミィって学校ではどんな感じ?」
 それから、そっと問いかけてくる。突然変わった話の流れと、その内容に面食らいながら、
「どんな……」
 その回答を頭の中で作ろうとする。
 真っ黒で、クラスにあんまり馴染んでなくて、ミスって呼ばれています。なんてこと、言えなかった。
 透史が口ごもったことで、察したらしい。
「いやな感じの子?」
 くすり、と笑って皆子が言った。
「いや、そこまでは」
 そこまではってなんだ俺。なに間接的に肯定しちゃってるんだ。
 皆子がくすくすと笑う。
「いいのよ、別に。そうじゃないかな、とは思ってたから。楽しんでるんだろうな、馴染んでるんだろうな、とは思ってなかったし」
 ほんの少し、寂しげに目を細める。
「高校自体、あんまり行きたくなかったみたいだから。でも、とりあえず高校ぐらいは行っといてほしいな、なんて思って。強引に進学させたけど、前の学校は殆どさぼってたし」
 しょうのない子ね、と笑う。ああ、この人が姉のようなものっていうのは、本当なんだな。そう思わせる、優しげな笑みだった。
「そういえば、三隅さんはどうしてあんな時期に転校を?」
「あー、ちょっとねー、仕事の関係で」
「仕事……。お祓い的な?」
「ええ」
 恐る恐る尋ねたのに、はっきりと頷かれた。そうか、やっぱりお祓いなんだ。でも学校に、わざわざ?
「透史君は? 学校、楽しい?」
「ええ、まあ。友達もいるし、部活も楽しいし」
「部活かー、私高校のときやってなかったからなー」
 青春って感じよねーと続ける。高校のことを過去形で話す。まあ、高校生だとは思っていなかったが。
「皆子さん、今は?」
「ん、大学生」
 言いながら放り出してあった鞄から、学生証を取り出す。
「……頭、いいんですね」
 人に言えば感心してもらえそうな、透史が今から頑張っても行けそうもない学校の名前がそこにはあった。
「いや、内部進学だから」
「内部進学……」
「幼稚舎からだから、頭はそんなに」
 はたはたと手をふる。幼稚舎とか、お嬢様っぽい。
「潤一さんも?」
「あいつは別の大学。叔母さまの教育方針で、義務教育は公立校だったし」
 教育方針で公立ってなんだ。我が家は高校までは絶対公立。大学も出来れば国公立受かりなさい! っていう空気なのに。
「ちなみに、どこかお聞きしても」
 皆子が挙げた名前は、皆子の大学よりもまたレベルの高い、国立大学だった。
「……なるほど」
 才色兼備、とはこういうことを言うのだろう。他になんと言えばいいのかわからない。
「じゃあ、大学進学のために地方のご実家から出て来た感じですか?」
 それにしては高そうなマンションに住んでいるけど。つーか、ここ、分譲じゃないのか。
「ううん。実家も都内だし。都内に住んでるとさ、なかなか一人暮らしするきっかけってないじゃない? 実家が地方の友達なんかは、進学で一人暮らししてるけど」
「まあ、そうですね」
 都内の大学だったならば、実家から余裕で通えてしまう。透史も恐らく、実家から大学に通うことになるだろう。わざわざ他の地方の大学を受けるつもりもないし、そんな金銭的余裕もないし。
「だから、うちでは大学進学の際に一人暮らしさせることにしてるの、代々。卒業したら実家に戻って家業継ぐことになるわけだし」
「家業って……」
「お祓いよ?」
 ですよねー。
「まあ、そんなこと言ってもここ、うちのマンションだから家賃かかってないし、家計のやりくりとかちっともなんだけど」
「なるほど」
 そうか、やはりここは分譲で、誰かの持ち物なんだな。きっとそうだ。多分。……本当に?
「……や、あの、うちのマンションって」
「私の父様が、このマンションの持ち主、オーナーなの。この部屋はいざというときのために、売りにも貸しにもだしてなかったんだけど」
 そっちか! この建物全体を所有か、大家か!
「……なるほど」
 お祓いだとかそんなこと関係なく、次元が違い過ぎる気がする。
「あ、じゃあ三隅さんは?」
「ミィは、うちで預かることになった時から私とジュンが面倒見るように言われてたし。年が近いから。私たち二人が実家出ることになるし、まあ色々とあって、一緒に住んだ方がいいかなってことで」
「だから三人で」
「そう。一人暮らしを経験する、という名目から離れてるんだけどね」
 まあ、それはそれでね、楽しいからいいかなって、と皆子が笑う。
「ミィって呼んでるんですね」
「そう、なんとなく子どものときからの流れで」
 楽しそうに笑う。
「仲が、いいんですね」
 ミスが二人に見せる、二人にだけ見せる少し甘えたような態度を思い返す。
「妹だからね」
 あたりまえのように皆子が笑った。その笑顔を純粋にいいな、と思った。恋心とかそういうレベルではなく、人としてとても好感のもてる笑い方だった。
 かちゃり、とドアが開く。
「待たせた」
 潤一が部屋から出て来た。
「お疲れ」
 思い出したように眼鏡をかけ直し、皆子が笑う。
「お帰り」
 潤一もそれに言葉を返すと、透史の前に立つ。
「これ」
 渡されたのは、ミスのピアスと同じような透明の石がついたストラップだった。石の形は円錐になっている。
「本当は身につけるものの方がいいんだが。高校生ぐらいならケータイをそんなに放置したりしないだろ」
「ええ、まあ」
「ちょっと、今日日ケータイにストラップつけなくない?」
 皆子が呆れたように口を挟んでくる。
「え、そういうもの?」
「あんたは古い機種使ってるからわかんないだろうけど、最近はつけないの。大丈夫? ストラップつけるところある?」
「あのあれだ、なかったら財布にでも入れててくれれば……」
「大丈夫です、俺のはつけるところあるんで」
 そのやりとりがなんとなくおかしくて、少し笑いながら透史は答える。ポケットからケータイをとりだし、渡されたストラップをつける。
「これで怪異からは君の存在は見えなくなる。君からも一応、怪異が見えにくくなる。完全に遮断とは行かないが」
「ありがとうございます」
「いや」
「それが仕事だから」
 皆子が笑い、鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ、私の連絡先」
 校章の入った名刺だった。
「何か困ったことがあったら連絡して」
「ありがとうございます」
 それを受け取る。
「ないにこしたことはないけどね」
 本当にそれだ。

 それから少し、世間話の続きのようなものをして、透史は生咲家を辞した。
 ミスは眠ったままのようだった。
 ストラップを見る。
 これがあると本当に大丈夫なんだろうか。よくわからない。
 色々あり過ぎて感覚が麻痺している。一体、今自分は何を思うべきなんだろう。