「要!」
 声をかけられて、大学構内のベンチに腰掛けて、本を読んでいた香月要は顔をあげた。
「月、どうした?」
 ぱたり、と本を閉じる。かけてきた月季花は小さな袋を彼に差し出した。
「……これは?」
「パウンドケーキ。私が焼いたのだよ。バレンタインだから」
 香月は今日が二月の十四日だということを再確認し、それから彼女が手に持っている袋を見た。
「……月が焼いた?」
「そう、私が。もっとも、林に手伝ってもらったがね」
 香月は林の苦労を気遣い、軽く目を閉じた。彼女の不器用さは彼もよく知っていた。きっと、これを形にするまでに林に多大なる迷惑をかけたに違いない。
 自分のせいでごめんなさい、と心の中で謝る。
「謝謝」
 思いながらも、小さな微笑を浮かべて袋を受け取った。にっこりと、月季花も微笑み返した。
 いくら林が手伝ったとはいえ、これは食べられるものなのだろうか? 今すぐ食べろといわれたらどうしようかと思いながら、その袋を見つめていると、
「では、私はこれから授業なので失礼する」
 彼女がそう告げた。
「ああ、そうなんだ」
「ああ。日本語の授業だよ。やれやれ、君に教わって日本語は完璧になったのに、何故未だに授業を受けなければいけないのか、わからないね」
 彼女は首を横に振った。
「そう抗議してみればいい」
「そんなもの既に試みた。担当教員に詰め寄ったよ。“私の日本語の一体何処に不備があるとおっしゃるのですか? 私の日本語が完璧だと言い張ることが出来る程、私はあつかましくはありませんが、しかし、他の留学生と一緒に低レベルな授業を受けるほど、劣っているとは思えません。日常生活にはなんら不備はありません。他の日本人学生における第二外国語の習得レベルの最終目標が日常会話が出来る程度であり、その目標すら達成できていない学生がいるなかで、私の学習レベルはかなり高いところまで達しています”とな」
「……きちんとした日本語使ったんだね」
「当たり前だ」
 ふん、っと彼女は鼻で笑った。
「以前、君に教わった日本語がおかしかったせいで、恥をかいてきたからな。君の前以外ではきちんとした日本語で話すことにしているよ」
 彼女の言葉に少し笑う。
「ならば、僕は特別だと思っていいんだね?」
 からかうつもりで言った言葉に、彼女はぴくっと一瞬眉を潜め、それから再び鼻で笑った。
「違うつもりだったのかね? まったく、くだらない押し問答に時間を費やしてしまった」
 彼女はそういうと、かつっと九センチのヒールを鳴らして、校舎の方へ向き直る。
「教授は何て言ったの? 月のその抗議について」
「……規則だから仕方がない、卒業したくないならば構わないが、だ。卒業はしたいので行くことにする」
「あはは、そっか」
 憮然とした表情の月季花をみて、笑う。彼女はふんっと鼻をならした。
「では、また後でな、要」
「うん、これありがとうね」
 最後の言葉に月季花は優雅に微笑み、かつかつと九センチのヒールを鳴らしてかけていった。
 残された香月はじっと袋を見つめ、ゆっくりとあけた。見た目はまあまあ。ふむ、と呟くと、それを小さくちぎり口に入れた。
 もぐもぐ、と租借する。
「あ、意外と美味しい」
 呟く。
「これはきっと殆ど林さんが作ったんだろうなぁ。あとでお礼言って置こう」
 そうも呟くと、もう一度本を開いた。

 そのころ、林は散乱した台所を片づけるのに半分泣きそうになっていた。