「よしっ」 みそ汁の味を確認して、京介は満足げに頷いた。 時計の針は、午前九時をさしている。京介としては少し遅くて、ここなにしては少し早い朝ご飯の時間だ。 「ココー、朝だよー!」 ここなの部屋に向かって呼びかける。京介からドアをあけることはしない、部屋の中に入ることもしない。別にここなに要求されているわけではないが、京介が自分に課したルールだ。 「ココー!」 食事の準備を進めながら、声だけをかける。返事はない。 あれ、寝起きはいい筈なんだけどな。昨日遅かったっけ? 食事の支度が整ってもここなが起きて来る気配がないので、首を傾げながら部屋に近づく。軽くドアをノックしながら、 「ココー」 呼びかける。 「うー」 うなり声がかえってきた。 「ココ?」 少し心配になると、がたがたっと物音がした。ドアから少し離れて待つと、 「……キョースケ」 のっそりとここながあらわれた。俯いた顔を髪の毛が隠している。 「ココ?」 顔をのぞき込むようにすると、 「……風邪ひいた」 小さな声で言われた。 「えっ」 「頭いたい……」 心無しか掠れた声で言われて、慌てる。 「え、ちょ、大丈夫? 熱は?」 その額に自分の手をあて、 「……うん、よくわかんない」 そういうのを判断する能力が自分にないことを思い知る。 「とりあえず、座って」 ソファーにここなを座らせる。 ちょっと顔赤いかも。 リビングの隅から、普段自分が使っている毛布をとってくると、ここなの肩にかける。 「体温計とかは? どこにある?」 「……多分、そこの棚」 テレビの近くの棚を指差される。多分ってなんだ。 棚の隅の方できゅーきゅーばこ、と手書きされた箱が埃を被っていた。クッキーの空き缶のようだ。 「これ?」 尋ねながら開けてみる。絆創膏やら消毒液やらの中から体温計を探し出すと、ここなに手渡した。 「ん」 素直にここなが熱を測り出したのを見ながら、さらに箱の中をあらためると、一応風邪薬を見つけた。外箱をじっと見回して、まだ大丈夫そうなことを確認する。 「あとこれ飲んどきな」 言っている間にも体温計がぴぴっと鳴る。 「どうだった」 「……三十八度二分」 嫌そうな声で返事が来た。 「あー、けっこうあるね」 「うー、測ったら急にしんどくなった」 呟いて、ここながころんっとソファーに倒れ込んだ。 「仕事は?」 「やすむぅー」 「その方がいいね」 ソファーの横に膝をつき、顔をのぞき込む。瞳が潤んでいて、ああやっぱり熱があるな、と思った。 「ご飯は……、いらない? でも薬飲む前になんか食べた方がいいとは思うけど」 「あんまり食べたくない……。今日は、和食?」 「うん」 「じゃあ、お味噌汁だけ欲しい」 「ん、待ってて」 ソファーから離れ、ここなの分の味噌汁をもって戻る。ソファーに座り直したここなは、それを受け取った。 「これ食べたら寝る」 「うん、その方がいいよ」 「京介、バイトだよね」 「……うん」 なんだか後ろめたくて曖昧に頷くと、 「平気だから気にしなくていいよ」 ちょっとだけ笑って言われた。 「今までも一人だったから」 「だけど」 今は一人じゃないのに。 「寝てれば治るの」 ね、っとここなが笑う。 「ん」 曖昧に返事した。 一人の時に一人っきりになるのと、二人の時に一人っきりになるのは、絶対に違うのに。そうは思ってもなんて言えばいいかわからない。 「キョースケ」 「ん?」 「アイス食べたい、バニラの」 一瞬何を言われたのか悩み、 「ああ」 理解すると苦笑した。 「買って来るよ、帰りに」 それでチャラね、という心遣いだろう。こんなときに、しなくていいのに。 と、思ったら。 「作って」 「いやそれはちょっと」 「キョースケの作ってくれたアイス食べたら治るのになー」 ふざけてそう言って、直後に少し咳き込む。それに、ああもうっと慌てて背中をさすった。 「バイト先の番号、書いてくから、何かあったらすぐ電話しなよ?」 「平気だよー、風邪ぐらい。でもありがと」 こっちがドキドキするのだ。少しぐらい理解してくれ。 薬も飲み終わったここなが、寝室に戻る。 「おやすみ、キョースケ」 「ゆっくり寝なね」 んっとここなは頷いて、扉の向こうに姿を消した。 ** 「んー」 どれぐらい寝たのだろうか。 ここなは目を覚ますと、枕元に置いたケータイに手を伸ばした。午後二時だった。結構寝たな。 ふーっと息を吐きながら、隣で寝ていた熊のぬいぐるみをそっと抱え込む。 少しは頭が軽くなった気がする。 ただの風邪なのにキョースケ、心配そうだったな。そう思って、ちょっとだけ笑う。心配してくれる人がいるのは、やっぱり嬉しい。 もう少し眠ろうか。その前に起きて水でも飲んだ方がいいだろうか。京介のことだからおかゆでも作っていってくれてるかもしれない。 ベッドに寝転んだまま、ぼんやりとそう考える。 「……あれ?」 かちゃかちゃと、何かの音がした、気がする。キッチンの方から。 不審に思いながら、ゆっくりと起き上がると、そっと小さく自室のドアを開ける。隙間から見える、知っている後ろ姿。 「……キョースケ?」 ドアをちゃんと開けると、キッチンに立っている背中に呼びかける。 「あ、起きた?」 彼は振り返って笑った。 「どう? 少しはよくなった?」 手を拭きながら近づいてくる彼に、小さく頷く。 「よかった」 「……キョースケ、バイトは?」 この時間はいつもならバイトの時間じゃないだろうか。 「ん、休ませてもらった」 「なんで」 そんなこと、しなくていいのに。悪いじゃないか。 「マスターが、風邪のときは誰かが傍に居てくれるに越したことはありませんからって」 「……別にいいのに」 言いながらも少し唇があがる。迷惑かけてしまったという気持ちと、それよりも嬉しい。 「素直じゃないなぁ」 京介が呆れたように言い、ここなの頭をそっと撫でた。 「食欲ある? おかゆ作ったけど。あと林檎とアイス買ってきた」 「……アイス作ってくれなかったの?」 「無茶言うなよ」 「残念」 「今度ココが元気なときに、なんかお菓子一緒に作ろう?」 拗ねるここなを宥めるように京介が言う。その提案はすごく魅力的に思えた。京介と一緒に、お菓子作り? 「うん」 だからいつもより素直に頷いた。 「お腹空いた。おかゆ食べる」 「オッケー、温めるから上着きておいで。それじゃあ寒いでしょ」 京介の言葉をうけて、カーディガンを持ってくる。 出されたおかゆ。梅干しと昆布も一緒に並んでいて、ちょっと悩んで梅干しを入れた。 向かいに座った京介が、軽く微笑んでここなが食べるのを見守っている。 「キョースケは?」 「食べたよ、もう。食欲あるなら、大丈夫かな」 「ん。久しぶりだから、ちょっと嬉しい」 「久しぶり?」 「病気のとき、おかゆ作ってもらったりするの。子どものとき以来だから」 思わずちょっと笑みがこぼれる。そっか、と京介が笑った。 おかゆを食べ終わって、アイスを開ける。 ふふっと小さく笑うと、 「どうしたの?」 めざとく問われた。 「あのね、これも子どものときみたい」 「アイス?」 「そう、ママがね、普段はアイスとか買ってくれなかったのに、熱があるときは買ってくれたの」 言いながら一口食べて、冷たさに思わず、ひゃっと声をあげた。 「そりゃあ、冷たいよ」 それを聞いて京介が呆れて笑い、 「そっか」 と続けた。 「何がそっか?」 「アイス食べたいって言った理由」 「うん。……あーあ、でもキョースケに作って欲しかったなぁ」 思い出してもう一度拗ねてみせる。 「……ごめんって」 「ちなみに、作れるの?」 「そりゃあ、できるけど」 「できるんだ」 「ココでも出来るよ」 「……あれ、バカにした?」 「気のせいだよ」 「ふーん。そういえば、料理人ってなにしてたの? なに料理?」 「一応、イタリアン」 「イタリアンなんだー。どこ?」 「……内緒」 「そっか。秘密主義だねー」 そう答えると、京介がちょっと意外そうな顔をした。 「なに?」 「いや、内緒とか言わないで教えろって言われるかと思って」 京介はなんだか困ったように首筋に手をあてて答える。 「へ?」 意外な返答に、ここなの方こそ変な顔をしてしまう。 「なんで? キョースケが言いたくないことなんて訊かないよ」 だって嫌な辞め方したことだって知っているのに。なに料理だったのか、っていうことだって言いたくないなら言わなくてよかった。そんなもの、関係ない。興味がないっていったら、嘘になるけど。興味は超あるけど。だけど、 「過去のキョースケがなんだっていいよー。今のキョースケが大事」 「ん、ありがと」 少し照れたような顔を京介がする。その顔に微笑んで告げた。 「過去なんて、心中するのに関係ないもの」 「はいはい、だからしないってば」 薬飲んで、京介が買ってきた熱冷ましのシートを額に貼られる。意外と、過保護だ。 「あっちで寝るの飽きたー。こっちで寝ていい?」 ソファーを指差して尋ねる。 「そりゃあいいけど」 頷かれたから、ひょいっとソファーに横になった。京介が自分が使っている毛布をかけてくれる。ふわっと一瞬、京介の香りがして、思わずふふっと微笑む。 カーディガンのポケットにいれていたケータイを、ソファーの前のテーブルに置こうとして、 「置けばいいの?」 手が届かなかったのを京介が置いてくれた。そして代わりに、テーブルの上にあったリモコンをとってくれる。 「ありがと」 ぴっと電源をつけて、適当にかちゃかちゃいじる。なにか知らない刑事ドラマの再放送がやっていたので、そこでとめた。 京介が足元の方で、ソファーに寄りかかって床に座る。 「……キョースケ」 「ん?」 「ソファー座ったら?」 少し体を丸めて、頭の方に空きスペースを作る。 「え? いいよ。体伸ばしたら?」 「いいから」 ぱしぱしと頭上の方を叩くと、しぶしぶと言った体で京介がそこに座った。 よしっと体を伸ばして、頭を京介の膝の上にのせる。と、 「そんなことだと思った」 呆れたように言われた。 「あれ、バレてた」 「なんとなくわかるよ、ココの考えることぐらい」 「愛の為せる技だね」 「そーだね」 「テキトー!」 くすくすと京介が笑う。 「ねー、キョースケ」 軽く手招きすると、彼は体を少し丸めてきた。顔が近づく。 「なに?」 手を伸ばしてその頬に触れる。 「……風邪ってうつしたら治るんだよ?」 囁くように言ってみると、 「そりゃー無理だ」 軽く笑いとばされた。 「バカは風邪引かないから、おれは風邪をひかない」 なんだか自慢げに言われて悔しくなる。だけど、そんなことで諦めるここなではない。 「じゃあ、遠慮しないで、甘えてもいいよね」 ころんっと寝返りをうつようにして、京介の方を向き、腰の辺りに抱きついた。 「そうきたか……」 忌々しげに京介が呟くから、楽しくてちょっと笑った。 ぱっと手を離して、向きを直して京介の顔を見上げる。 「ね、キョースケ」 「ん?」 「さっきの話、本当?」 「どれ?」 「一緒にお菓子作ろうってやつ」 「ああ」 京介が微笑む。 「そんなとこで嘘ついてどうすんのさ。作ろうよ」 「何を? 作れるの? うち、オーブンとかないよ?」 ちょっと不安になって尋ねる。お菓子なんて、作ったことがない。 「それこそアイスみたいに冷やして固めるやつなら作れるし、フライパン使うのでもいいじゃん。そうだなー、クレープとか、楽しそうじゃん?」 「クレープ! クレープって家で出来るの? クレープ屋さんにある、あのぐるっとまわして生地焼くやつなくてもいいの?」 「出来るよ」 思わずテンションがあがって尋ねると、呆れたように笑われた。 「クレープ、好き?」 「うん。よく食べる、買い物行ったついでとか」 「ならよかった。そうだなー、ミルクレープみたいにしてもいいし、適当にフルーツとか買ってきて、好きなもの巻いてもいいかもね」 「楽しそう!」 京介が焼いた生地に、好きな中身いれてクレープを作る。それはなんだかとっても楽しそうで、とっても幸せそうな光景だ。 「楽しみ!」 「それはよかった」 京介は微笑んで、シート越しにここなの額に触れた。 「だからあんまりはしゃがないで、はやく治して」 「はーい!」 「……テンション高いなー、熱あがるんじゃないの?」 呆れたように言われたけれども、京介も少し楽しそうで、ここなはさらにふふっと笑った。 テンションがあがって寝付けなくなって、そのまま京介と一緒にだらだらとテレビを見始めた。 刑事ドラマが終わると、次はなんだかもっと古い時代の再放送のようだった。よく言えば懐かしい、悪く言えば古くさい髪型や化粧の人がでてくる。どうやら、子ども向けの特撮ヒロインものらしい。主人公らしき女の子が変身した。 「あなた鬼ね!」 そう叫ぶ少女の頭には、小さな黒い帽子。口元のホクロ。 あれ、これってどっかで見たことあるような……。ここなが内心首を傾げていると、 「これ、花火のときのお面に似てない?」 京介が言ってきた。 「あ、それだ」 どこかで見たことあると思ったら、花火の時に買った謎のお面の女の子に似ている。小さな帽子に口元のホクロ。なんだか知らないけど気が向いて買ったもの。 「アニメじゃなかったのかなー」 「そもそも、これ、なんて番組?」 「ちょっと待って」 リモコンを操作して、番組表をだす。 「えっとね、疑心暗鬼ミチコ、だって」 「……なにそれ」 「んー、ケータイとって」 「はいはい。ちょっと、ごめんね」 京介が手を伸ばして、テーブルの上のケータイをとってくれる。ごめんね、は少し体勢が崩れたことに対する謝罪だろう。真面目なんだから。 「はい」 「ありがと」 疑心暗鬼ミチコで検索。 「あ、あった。んっとね、疑心暗鬼ミチコは美少女四字熟語シリーズ第一弾」 出てきた説明を読み上げると、 「……まって、なにそれ。また新しい言葉が」 「えっと。美少女四字熟語シリーズは、八十年代に作成された特撮ヒロインもの。基本ストーリーは、変身能力を手に入れた少女達が悪の集団「一日一善」と戦うものであり、基本は一話完結である、だって。あ、二千年代にアニメとしてリメイクされたって書いてある」 「あ、じゃあ、あのお面はそのアニメの方なのかな」 「多分ね」 「……第一弾ってことは、他にもあるの?」 「待って。えっと、あ、他にね、七転八倒富子、七転びヤオ君子、あとアニメオリジナルで四苦八苦久美子っていうのがあるって」 「なんか幸薄そうだね、みんな」 「ね。でも人気あったらしいよ」 「へー、しかしまあ、変わったものもあるんだね」 「ねー」 テレビ画面では、イチニチチゼーン!! とか言いながら襲って来る敵相手に、ミチコが奮闘していた。 ** テレビ見ながら色々喋っていたが、急に静かになった。 「……ココ?」 京介は、そっと膝の上のここなに呼びかけてみる。 すーすーと寝息が返ってくるだけだった。 熱のせいか、いつもとは違う感じにテンション高かったな。そう思って苦笑する。顔色は朝よりもだいぶ良くなっていて、安堵した。 気づいたら握られていた左手。ここなの手をそっと撫でてると、名残惜しそうに手が離れた。 そっと抱き上げ、立ち上がる。そうしてから、部屋に入っていいものかと悩む。まあ、別にとめられているわけでもないし、自分ルールなんだけれども。 しかし、風邪ひいている人間をこのままソファーに寝かせておくのも良くないし、しょうがない、例外だ。 失礼しまーすと呟き、ここなの部屋に入る。あんまり辺りをじろじろ見ないように注意しながら、ベッドに近づく。 ベッドの真ん中を陣取って寝ている熊のぬいぐるみをどかしながら、そっとここなを寝かせた。毛布をそっとかける。 熊のぬいぐるみと一緒に寝てるとか、可愛いとこあんじゃん。やや乱暴にどかした熊を今度は優しく拾い上げ、ここなの隣に置こうとして、気づく。ああこれ、よく見たら、自分がUFOキャッチャーでとったやつじゃないか。 それに気づいて、なんだかくすぐったくって、曖昧に笑う。 大事にされてんなお前、そう呟きながら、熊の頭を軽く叩いた。ずるいなぁ、一緒に寝ているとか。 部屋を出る前に、もう一度、ここなの頭をそっと撫でる。 いい夢を見ているのか、微笑んでいる。 目が覚めても世界が君にとって優しくありますように。 「おやすみ、ココ」 小さく呟いてから、部屋を後にした。 |