不満を一つあげるなら

 彼はいい人だ。

 それはもう、間違いは無い。
 確かに言葉は足りないし、人を縛り付けるようなところがあるし、ぶっきらぼうで面白みが無いけどそれでも、彼はいい人で、そんな彼と恋人である私は本当に倖せだと思う。

 でも、時々不安になる。

「ああ、おはよう」
   朝、縁側で煙草を吸っていて、私に気付くとそれをすぐに灰皿に押し付ける、そんなこととか、私の少し後ろを、あきれたように笑いながら散歩することとか、そんな、毎日のありふれたことをみて、時々不安になる。
 突然不安に襲われて、彼にしがみついて泣きたくなる。
 そんな衝動に襲われる。

「どうした?」
 散歩中に、いつものような不安に襲われて、子猫に向かって伸ばしていた手をそのままに、固まってしまった私に彼が問う。
 じっくりみないとわからないけれども、不安そうな顔をして。
「なんでも、ないわ」
 そういって、笑う。
「具合悪いなら無理するなよ」
 そう言って彼は私の髪を撫でる。
 泣きそうになる。

 彼はいい人だ。
 彼は不器用だけれども不器用なりに、私との関係をちゃんとしようとしてくれている。

 でも、不安になる。
 理由はわかっている、わかっているのだ。
 そう、不満を一つあげるのならば、それが私に許されるのならば、彼に対して不満を吐き出すなんて、そんなことが許されるならば、彼は、私を愛しすぎている。

 彼は絶対に私よりも長く生きる。
 だからだ。
 だから、彼が私を愛してくれれば愛してくれるほど、私は不安になるのだ。
 彼はきっと、私が死んだあと、他の誰かに同じような態度をとるのだろうと。
 そのころには、私のことなどすっかり忘れてしまうのだろうと。
 そう考えて泣きそうになる。
 普段、優しい言葉なんてかけない人だから、たまに優しい言葉をかけられたらものすごく嬉しくて、きっとそれと同じ事。
 他人に対して冷たい人だから、私に対して優しくしてくれればしてくれるほど、不安になる。
 壊れてしまうことを考えて不安になる。

 好きになってもらって嬉しいはずなのに、それがとても苦しい。
 彼はきっとこの感情を理解してはくれない。
 そういう人なのだ。

「もう、帰ろう」
 そう言って差し出された手を握り返し、私は出来るだけ微笑みながら思った。

 彼は、私を愛しすぎている。
 もういいの、もういいから、この辺でやめて。
 大切だから、もうやめて。
 私はもう、十分だから。

 少し前を行く背中にそう声に出さないで言った。

 どんなに、愛しても、この背中に、私は絶対に追いつけない。
up=2004