その後は表面上、何事も無く日々が流れて行った。
 貴方が全力で走った事で、少し村の人が隆二のことを奇怪な目で見る事になってしまったけれども。
 気に病む私に貴方は、
「別に、今更気にしても」
 何でも無い事のように肩を竦めた。
 そうして、
「そんなことより大丈夫か?」
 いつだって、私の体の心配をした。
 そう、あの日から貴方は、目に見えて過保護になった。平気だと言っているのに、私に触るのも少し躊躇う程度に。
 あれには少し、閉口した。
 私は、貴方に気づかれないように少しずつ、家の中から日付の判る物なんかを撤去した。時間は無くならない。そんな事は判っている。
 それでも、時間なんてものは無いフリをしたかった。
 それは、私の為だけど。
 私も隆二も、時間については触れないようにしていた。意識しないようにしていた。
 嗚呼、違う。一度だけ。一度だけ、私はその話題に触れたことがある。

 きっかけは散歩の時のこと。
「ほらほら、おいで」
 野良猫を構うのが、その頃の私の日課だった。
 片手を伸ばしてそう告げる。猫は警戒しながらも少し近づいて来る。
 今日こそ、触れるかもしれない。期待していると、
「痛いっ」
 悲鳴をあげると、伸ばした手を引っ込め、反対の手で押さえる。
 伸ばした私の手を引っ掻いて、猫が逃げて行った。
 背後で見守っていた隆二が、呆れたような溜息をつきながら、引っ掻かれた私の手をとった。
「血は出てない、な。とりあえず、あとで消毒しておけよ」
「はい」
 それには素直に返事したものの、口からは思わず溜息が漏れる。毎日毎日、この展開だ。
 ぼやく私を、しばらく呆れたような顔で見ていた隆二だったが、
「……茜」
 少し真剣な顔をして、私の名前を呼んだ。
「やっぱり野良は警戒心が強いから気をつけた方がいいんじゃないか? 傷口から何か病原菌に感染してしまってから嘆いても遅い」
「そうは言うけれども」
 隆二の言っていることは正論だとは思う。それでも、やっぱりなんだか不満だ。
 反論しようとした私を、隆二の言葉が遮った。
「というか、人に平気で近づいていくような野良は駄目だろう。生き残れない」
 それもまた、正論だった。
「そっか、そうだよね……」
 でも猫、可愛いのに。特に最近見かけるあの子はとっても可愛いのに。
 あからさまに落ち込んだ私を見かねたように、隆二が言葉を続ける。
「だから、餌を与えたいならば此処に置いておけばいいんじゃないか?」
 そういってほらっと、物陰からこちらを見ている猫を指さす。
「あ、そっか」
 持っていた煮干しを、地面に置く。
 猫に触れてみたいことが大きいが、少し痩せたあの子の事が気になるから、構っているのが実情だ。
「それじゃ、私達は行くからゆっくり食べて大きくなるのよ」
 猫に向かって真剣にそう伝えると、隆二が呆れたように笑う。そのまま、二人で家に向かって歩き出した。
「そんなに猫が好きならば、飼えばいいだろう」
「でも、それはそれで色々と問題があるから。餌代とか躾とか。それに、先生は私が猫と触れ合うのあまりいい顔なさらないから」
「だろうな。ただでさえ体弱いのにその自覚ないから」
「何、その言い方」
「あまり無茶をするな、と言っているんだ」
 ぶっきらぼうで、冷たい言い方。でもそれが、口下手な貴方にとって「ものすごく心配だから無茶はしないでくれ」を表す言葉だと気づき、少しくすぐったくて笑う。
「うん、気をつける。有難う。……あれ、でも、飼ってもいいの? 前は嫌そうにしていたのに」
 猫問題は、隆二と暮らすようになってから、既に何度かあがってきたのだ。その度に、隆二はいい顔をしなかった。あまり、生き物と一緒にいるのが好きではないようだ。
「毎日毎日、野良に餌をやりに行くのにつき合わされるよりは幾分ましだ」
「……そう」
 返された言葉は、なかなかに冷たかった。
「なんだ、てっきり隆二も遂に猫の可愛さに気づいたのかと思ったのに」
「俺は未だに思うぞ。あんな懐かない生き物のどこがいいのか、と」
 あまつさえ、そんなことを言い出す。
「判ってないわねー」
 呆れて笑いながら、猫の可愛さについて貴方に話ながら、歩く。
 猫は可愛いと思う。でも実際のところ、大好きだと言う程でもない。それでも、貴方に猫を好いて欲しかった。
 いいえ、猫でなくても構わなかった。何でも良かった。
 貴方に何か、私以外の生き物に接して欲しかった。
 隆二は私の話を判っているのかよく判らなかったが、私は最後にこう締めくくった。
「隆二も、猫を飼ってみればいいのよ。そうすれば、絶対その可愛さに気づくから」
「にゃー」
 私の言葉が終わったのと、猫の鳴き声が聞こえたのはほぼ同時だった。
 狙ったような鳴き方に少し驚きながら、声の主を捜す。
 もしかしたら、これは神様からの贈物なのかも知れない。そう、思った。
 私は貴方に、生き物に接して欲しかったから。
 道の端に置かれた、くたびれた箱。それに駆け寄ると、中では案の定、仔猫が震えていた。
「隆二来て」
 少し離れた所で、きっと呆れた顔をしている貴方を手招きする。貴方は文句も言わずに隣に来てくれた。
 そんな貴方に、その箱をそっと手渡す。
 中に居たのは、黒い仔猫だった。今は薄汚れているけれども、きっと綺麗であろう毛並みをしていた。黒というよりも、漆黒。
 緑の瞳でじっとこちらを見てくる。
 この子をどうするかなんて、考えるまでもなかった。
「……茜?」
 黙って猫を見つめていた私に、隆二が声をかけてくる。それに言外に含まれた意味を理解しながらも、私は努めて明るく、隆二を気にせずに言った。
「怪我しているみたい、捨て猫かしら? 可哀想に、まだこんなに小さいのに」
「茜?」
 もう一度、先ほどよりも強く名を呼ばれる。
 まさか拾うつもりじゃないだろうな。貴方はきっとそう言いたかったのだろう。でも、
「ねぇ、隆二」
 私は隆二の瞳を捉えると、微笑んだ。
「助けてあげなきゃね」
 言うと、隆二は一瞬、何かを言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。代わりに小さく息を吐いて、家に向かって歩き出す。
 貴方は優しいから、駄目だとは言わない。先ほど、自分で飼えばいいと言ったばかり、ということもあるのだろうけれども。
 隆二の隣を歩きながら、仔猫を見つめる
「これで、隆二も猫の可愛さが判るわね」
 微笑むと、隆二は何も答えず、ただ呆れたような溜息を返してきた。
 それでも良かった。
 私は、貴方に、私以外の生き物と接して欲しかった。
 別にそれは猫でなくても構わなかったし、勿論人間でも良かった。
 私は、貴方の永遠をずっと一緒に生きてあげることが出来ない。いずれ、私は貴方を置いて逝くことになる。そうなった時に、貴方が何か生き物と触れ合うことを躊躇うようにはなって欲しくなかったのだ。
 貴方のその冷たい手を、温めてくれる何かが居てくれた方が良い。そう思っていた。
 それが例え人間でも。
 人間の、女であっても。
 本当は、そんなこと想像するだけで厭だけれども、それでも。貴方がひとりぼっちになってしまうよりは、ずっといい。
 私は、そう思っていたの。

 連れて帰って来た猫を、部屋の暖かいところに箱ごとおろす。
「隆二、一寸見ていて」
 それだけ告げると、返事は聞かずに台所に向かう。とりあえず、温めた牛乳を用意すると持って行った。
 隆二は、少しだけ箱とは距離をとっていたけれども、それでもちゃんと仔猫を見ていてくれた。何を考えているのかは、その表情からは判らなかったけれども。
 嫌がらないでいてくれたことが、どこか嬉しかった。
「どうぞ」
 箱の中の猫に、牛乳を差し出す。お皿に容れたそれを、その子はしばらく見ていたが、飲もうとはしない。
「……まだ、母親からお乳をもらう年齢なんじゃないか?」
 私が困惑していると、隆二がそう言った。
「嗚呼、そうね。それじゃあ、何か、代わりになる物」
 とはいえ、赤ん坊も居ない我が家に哺乳瓶などある訳も無いし、
 おろおろしている私を見て、隆二は一つ、溜息のようなものを吐いてから、
「なんか、綺麗な布」
「え?」
「あるか?」
「あるけど。……一寸待ってて」
 少し慌てて取りに行く。持って来たそれを隆二は受け取ると、
「何も無いよりは、いいだろ」
 何かに言い訳するかのように呟くと、丸めた布を牛乳に浸した。そのまま、それを仔猫の口元に持っていく。そこから、絞り出す様にして、仔猫の口に牛乳を落とした。
 そこに食べ物があることに気がついたのか、仔猫は布をくわえる。それを何度か繰り返して、隆二は何かに納得したかのように頷くと、
「後は、茜がやってくれ」
「あ、うん」
 私が布を受け取ると、隆二は立ち上がり、何処かに行ってしまった。
 私は、隆二がやったように仔猫に牛乳を与えながら、ただただ、驚いていた。
 貴方がこんなこと考えついて、実行するなんて、考えても見なかった。
「……自分で思っているよりも、ずぅっと優しい人だからね」
 出逢った時からそうだ。貴方は子供を助けようとしたのだ。
 この分なら、きっと、貴方は大丈夫。時間はかかるかもしれないけれども、ずっと独りで居る事はないだろう。私が居なくなった後も。
 優しい貴方だから、また何か、懐かれてしまった生き物と、仕方なしにでも一緒に生活することだろう。
 貴方に温もりを与える存在が、いつか、きっと現れるだろう。
 犬か、猫か、もしかしたら、人間かもしれないけれども。
 私以外の誰か、女の人と居る貴方を想像してちくり、と胸が痛んだ。
 ゆっくりと、覚悟してきたつもりだった。それでも、やっぱり想像すると厭な気分になる。
「仕方ないのにね」
 私は貴方とずっと一緒に居てあげられないのに、貴方に一人で居る事を強要するなんて、酷い事だ。頭では判っているのに。
「仕方ないわよね」
 感情は、そう簡単にはつ<いていかない。
 仔猫の牛乳を与えながら、小さく微笑む。
「今は、まだ」
 にゃぁと、小さく仔猫が鳴いた。
「貴方の、名前も決めなきゃね」
 最期の瞬間に、隆二の倖せを願えるように。それが、私の人生の目標だ。

 食事を与えて、寒くないように気をつけて。後は何をしたらいいのだろう。
 隆二が仲良くしている子供達の中に、猫を飼っているお家があったから、あの子に聞いてみよう。
 そんなことを考えながら、お皿を片付けるために、ほんの少し、仔猫の傍を離れた。
 私としては、それだけのつもりだった。
 再び、仔猫の前に戻った時、仔猫はその緑色の瞳を閉じて、眠っているようだった。最初、そう見えた。
 でも、近づいてみて気づいた。さっきまで動いていた、黒い毛並みが動いていない。
 息を、していない。
「っ、隆二つ!」
 思わず、叫ぶ。
 慌てて抱き上げた仔猫はまだ温かくて、眠っているように見えて、でも、鼓動が感じられない。
 やだ、だって、そんな。
「茜っ?」
 慌てた様に隆二が走ってくる。
「どうした?」
「助けてっ」
 そんなこと隆二に言っても、隆二を困らせるだけだと判っていたのに、仔猫を差し出し、縋り付く。
 だって、そんなの、
「この子を助けてっ」
 納得出来ない。
 隆二は驚いた様に仔猫を受け取る。ひんやりとした貴方の手が、触れた。
 隆二は仔猫に触れ、軽く眉を動かすと、そのまま座り込み、仔猫の様子を見始める。
 私は祈る様に両手を組んで、それを見ていた。
 いくらかの時間が流れて、
「茜」
 隆二が顔を上げた。
 いつの間にか泣いていた私の頭を撫でて、隆二は小さく微笑んだ。
「お墓、作ってあげよう」

 庭の隅に、隆二が穴を掘っていく。それを仔猫を抱えたまま、黙って見ていた。
 一体、何が駄目だったんだろう。私には、それすら判らない。それなのに、猫を拾おうなんてしたことが駄目だったのだ。
 誰かに暖かさを与えたい等という、不遜な気持ちで、この子を使ったから。だから、私が悪いのだ。
 結局、この子は救えず、隆二をも傷つける結果になってしまった。
「茜」
 名前を呼ばれて、俯いていた顔をのろのろあげると、隆二が困ったような顔をしていた。
 穴は、掘り終わったらしい。
 ゆっくりと、その中に仔猫を寝かせた。
 隆二が、庭に勝手に咲いていた花を幾つか手折ると、猫に手向けた。
 御免なさい、御免なさい。
 心の中で謝りながら、仔猫を見送る。私に泣く資格なんて無いのに、涙が溢れてきた。
 地面に膝をつき、座り込む私の後ろで、隆二が困った顔をしているのが判った。
 御免なさい、貴方にそんな顔をさせたかったわけでもないのに。
「茜」
 そっと、貴方が優しく声をかけてくる。
「子猫だから、抵抗力が弱かったんだ」
「……うん」
「だから、茜が悪かった訳じゃない」
「……うん」
「今度はきっと、元気に生まれてくるさ」
「……うん」
「だから、……もう泣くなよ」
「……判っているけど」
 私が悪い事は、判っているけれど。
「でも。でも、やっぱりもっと他に何かが出来たのじゃないかと思うから。それにまだ、……まだ、名前すら付けてあげていないのに」
 私は本当に何もしていない。
 あの子が、苦しんだ顔をしていなかったことだけが救いだ。でも、そんなの私の勝手な救いだ。
「……生き物は」
 隆二が、躊躇いがちに話だした。
「いつか死して逝くものだ。自然の理なんだ」
「だから、諦めろというの!」
 宥めるような言葉に、思わずかっとなり、振り返る。それで死が諦められるというの?
 でも、振り返ってすぐに、怒鳴るように言ったことを後悔した。隆二がいつもよりも眉を下げて、諦めた様に笑っていたから。
 嗚呼、そうだ。彼が、諦めろなんて言う訳が無い。
 諦められたら、このひとは苦しんだりしない。
「違う。だから、黙って送ってやれって言いたいんだ。……それは、自然なことなんだから」
 死なない貴方は、そう言った。自分の存在が自然ではないと、死ぬ事を諦めた貴方が言った。
 私は何も言えなくて、口を閉ざした。俯く。
 ぽたり、とまた涙が落ちた。
 私は最早、自分がなんで泣いているのかが判らなかった。
 仔猫の為か、悲しいのか、悔しいのか、詫びているのか。それとも、貴方の事を思ってなのか。
 私の感情が少し収まったころ、隆二が言葉を選ぶようにして、
「なぁ、茜。……少しだけ判ったぞ。懐かれると可愛いっていう意味が」
「……うん」
「もっと勉強して、今度は救えるようにしような」
「……うん」
 それが、貴方の精一杯の慰めの言葉である事が判った。
 貴方は本当に優しい。
「……ほら、風邪引くから戻るぞ」
 そう言って差し出された片手に掴まると、立ち上がる。
 私の手を引いて、家に戻ろうとする貴方の背中を見つめる。
 こんな事、本当は言ってはいけないのだと、頭では判っていた。でも、どうしても言いたかった。言っておきたかった。これは、私の我が侭だけれども。
 今を逃したら、もう二度と機会は訪れないことが、漠然とだが判っていた。
 だから私は、
「……隆二」
「なんだ?」
 禁忌を犯した。
 貴方の背中に、躊躇いながらも、しっかりと告げた。
「……もし、私があの子みたいになった時は、黙って見送ってね」
 隆二は、何も答えなかった。黙っていた。
 言ってはいけないことだとは、思っていた。貴方を傷つける言葉だというのも。
 私達はお互いに、時間から目を逸らしていたから。私の命の終わりについて、考えないようにしていたから。
 でも、一度だけ。今だけ。私は貴方に言っておきたかった。
 引きずらないで。囚われないで。気にしないで。貴方は優しくて臆病だからそんなことを言っても無理だろうけれども、それでも。
 どれぐらいの時間が経っただろうか。
 私は、かすかに隆二の背中が震えるのを見た。
 そして、
「二度と、そんなこと言うな」
 体の奥から吐き出したような声で、隆二はそれだけ言うと、あとは黙って家に向かって歩く。
 判っている。もう二度と言わない。でも、忘れないで。
 そう思って、少し微笑んだ。