しばらくそうしていると、 「おのれっ、半血と人間の分際でっ!」 地獄の底から這い出るような、低い、怨嗟の声がした。 マスターが慌てたように振り返る。 黒男がよろけながらも、ゆっくりと立ち上がろうとしているところだった。 ひっ、と喉の奥で悲鳴をあげる。 「あの勢いで叩き付けられて、まだ動けんのかよ」 マスターが舌打ちする。 叩き付けられたって、私が見ていない間に何があったのだろう。 マスターが威嚇するように唸る。 黒男もだいぶふらついているけれども、マスターだって傷だらけだ。 「マスターっ」 このまま、また戦ったら、マスターが死んでしまうかもしれない。 すがるような私の悲鳴に、マスターは一度、困ったように私に視線を向けたものの、またすぐ黒男に視線をなおした。 どうしよう。 一触即発。睨み合う二人を見ながら、私はただ動けないでいた。 息をするのも躊躇うほどの沈黙。 どちらが先に動くのかと、伺うような空気を、 「あーもーうぜーな、いい加減諦めろよ、犬畜生めが」 場違いな程、気怠げな声が遮った。 そして同時に、黒男が右にふっとんでいった。 「っ! 英輔さんっ!」 どこから現れたのか、英輔さんが黒男を蹴り飛ばした。 「英輔!」 マスターが叫ぶと、 「遅くなってごめん」 彼は片手をあげた。何事もなかったかのように、ひょうひょうと。 っていうか、 「腕は? 足は? ついてますか!?」 慌てて彼に問うと、 「なにそれ? ついてるよ。あんな獣ごときにやられるわけないじゃん。数が多いから手間取ったけど」 あっけらかんと笑って言われる。その割には、体中血まみれだけれども……。 でも、黒男をぶっとばして、しっかりと立っているということは、それなりに大丈夫ということなのだろう。ひとまず安堵する。 英輔さんはずかずかと倒れたままの黒男に近づくと、がしっとその頭の上に右足を置いた。押さえつける。 「ったく、手間掛けさせやがって。感謝しろよ、半殺しにとどめといてやったんだからな。殺しちまえば、もっとはやかったのに」 いつもと同じ、どこか気の抜けた言い方で、物騒なことを言い出す。 ぐりぐりと、右足が小さな円を描くように動き、黒男を押さえつける。 黒男が呻いた。 そんなことを英輔さんは、顔色を変えずにやっている。 「英輔、もうやめろ」 マスターがたしなめるように言うと、英輔さんは足を離した。それから、黒男からは目を離さないまま、いつもと同じトーンでマスターに話しかける。 「ねぇ、沢村さん。沢村さんが、殺すなって言っていたから、俺はちゃんとそれを守ったよ?」 「ああ、感謝している。それに悪い、巻き込んで」 「それはいいんだけどさ。沢村さんいなくなったら餡蜜食べられなくなるし、手伝うことは吝かじゃないけどさ」 なんでいまこのタイミングで餡蜜の話がでてくるの……。 「だけど、本当に生かしておく必要がある? こいつらを」 とんっと、軽い感じで英輔さんの足が、黒男の腹にめりこんだ。 「ぐっ」 「英輔っ」 黒男のうめき声と、マスターの叱るような声。 「これぐらいじゃ死なないよ」 「もうそいつ立ち上がれないんだからいいだろうがっ」 「よくないよ。なんでいいと思うわけ? 沢村さんは」 呆れたように英輔さんは言うと、こちらに目を向けた。おいたをした子ども叱るような顔をしていた。 「つきまとって迷惑だしさ、店をあんなにめちゃめちゃにしてさ、卑怯にも理恵ちゃん狙うしさ。ホールにおいてあったケーキショーケース、あいつらが蹴飛ばすからケーキもおしゃかになるしさ。沢村さんにも理恵ちゃんにも怪我させるしさ」 なんでいま、ケーキが同列に並べられたの……。 「そんなことしたやつらを、どうして生かしておくわけ?」 「あとは、司法の手に委ねるべき問題だろうが」 「ああ、妖し界の? でも、それでこいつが反省すると思うの? また、狙って来たらどうするの?」 聞き分けのない子に、言い聞かせるような声色で英輔さんは続ける。 「俺はね、沢村さん。年長者として忠告してあげてるんだよ? 百年以上、物の怪として生きてきた俺が、二十そこそこの若造に、アドバイスしてあげているんだ」 ああ、そうか。英輔さんの話が本当ならば、本当に不老不死だというのならば、百年生きているという話も本当なのか。 ぐっとマスターが言葉につまったように呻いた。 それから察するに、マスターの実年齢と見た目の年齢は、一緒らしい。 「大事なものを守りたいのならば、手段を選んではいけない。情けをかけるべきではない。危険の種は排除できるときに排除しておくべきだ。化け物であることを最大限利用しておくべきだ。じゃないと、いつか後悔することになるよ」 いつものへらへらした英輔さんからは考えられないぐらい、しっかりとマスターを見据えた上で、はっきりと告げた。そのままの口調で続けた。 「俺は、甘いもののためならば、世界を敵にまわすことも厭わない。そういうつもりで生きている」 な、なんだそれ。 真面目な空気の中で言われた、とんちんかんな言葉に脱力する。 でも、マスターは違ったらしい。英輔さんの言葉に何を思ったのか、 「……それでも、俺は」 沈黙の後、震える声で、小さな声で言葉を紡ぎ出す。 英輔さんが、子どもを見守るような、優しくてどこか厳しい目でマスターを見つめている。ただ、黙ってマスターの言葉を待っている。 「俺はっ」 「お待たせしました!」 言いかけたマスターを、はきはきとした男性の声が遮った。 声の方を見ると、英輔さんの近く、空中から紺色の服を着た男性がでてきた。空中に、亀裂が入っている。例えば、子どもの頃漫画で見たタイムマシーンの表現のような、亀裂が。 出て来た男性はびしっと敬礼する。その後ろから、もう二、三人でてきた。 彼らはお揃いの紺色の服を着ていた。なんとなく見たことがあるような。なんていうか、そう、警察官みたい。 彼らは倒れている黒男に近づく。英輔さんがひょいっとそこから避けた。さっきまでの真面目な顔は消えて、いつものへらへらした顔をしている。 「狼人間、ジャン・二宮」 黒男の顔が、僅かに動いた。不愉快そうに、低く唸る。 「妖し界の警察官だよ」 いつの間にか、私の隣にきた英輔さんが教えてくれる。そんな気は、していたんだけれども。 「ジャン・二宮。人間に対する殺人未遂罪、ならびに同族に対する同罪の罪で現行犯逮捕する」 ……あの人、ジャン・二宮っていう名前なんだ。あっけにとられる私の前で、人型に戻されたジャン・二宮が手錠をかけられる。 警察官が一人、こちらにやってくる。あ、この人は女の人っぽい。と、思っていたら、 「友哉」 彼女が口を開いた。艶っぽい声色には聞き覚えがある。 「三恵子」 人間に戻ったマスターが、軽く肩をすくめた。 ああ、そうだ。店に来ていて、マスターと喋っていた、あの女性だ。 地味な制服姿だということと、化粧が薄いから最初わからなかったけれども。 自然に顔が強張る。 「りーえちゃん」 隣で英輔さんが、揶揄するような声で名前を呼んできた。顔に出ているのは、わかっているってば。 「怪我を……」 「俺はいいから、理恵ちゃんのこと、先に頼む」 彼女はマスターの言葉に頷くと、私の前に跪いた。突然のことに驚いたけれども、これは多分、視線を合わせるための意味しかない。背が高いからって! 「ご挨拶が遅れました。妖し警察第三支部人間界犯罪対策課の大鎌三恵子です」 言って柔らかく微笑む。最初のちゃらちゃらしたイメージとは違う、しっかりとした対応だった。 「あ、あの」 「大崎理恵さんですね?」 「あ、はい」 「怪我の治療、させていただきますね」 私の戸惑いを無視して、流れるように彼女はそういうと、 「失礼します」 ポケットから出した小さな瓶の中身を、怪我した頬とやけどした手にそっと塗り込んでくれる。 ひんやりと、冷たい感覚。 どうしたらいいのかわからず、されるがままになっている私に、 「この人はあれだよ、カマイタチの最後の人」 英輔さんが、やっぱりイマイチ緊張感のない声で教えてくれる。 「最後?」 「カマイタチは三人一組で、一人目が転ばして、二人目が斬りつけて、三人目が薬を塗るわけ」 え、なにそのマッチポンプ。 「カマイタチの薬はよく効くらしいよ、俺には必要ないからわかんないけど」 言われて見てみると、確かに傷痕が消えている。 「よかった、女の子ですからね」 大鎌さんはにっこり微笑んだ。 ところで、大鎌ってカマイタチだから大鎌なんだろうか。 マスターはマスターで、向こうの方で警察官となにか話をしている。あっちこっち怪我をしていて、見ていて心臓が痛い。 「あ、あの、マスターにも……」 大鎌さんに言うと、大鎌さんはそうですね、と柔らかく微笑み、マスターの方に向かっていく。 「友哉」 「理恵ちゃんは?」 「大丈夫。それより、さっさとっとと怪我したとこだして」 「……おまえなんでそんな乱暴なんだよ」 「あんた相手に気ぃ使ってもしかたないでしょ、はやくして」 「はいはい」 そんな会話が聞こえて、マスターが着ていたシャツを脱いだ。脱ぐのか……。そりゃあ、傷の治療ってそうじゃなければ出来ないだろうけれども。 そうして大鎌さんが、その綺麗な指でマスターの肩やら腕やら足やらの怪我に薬を塗っていく。 これはなんていうか……。 すっかり黙り込んだ私に、 「なんか、やらしいね」 私が、思ったまんまのことを英輔さんが言ってきた。 「治療ですからね!」 強く言い返す。こんなときに不謹慎なんだから、私はっ。 などとやっている間に、怪我が治ったマスターが警官達と一緒にやってくる。 怪我は治ったものの、流れた血は元には戻らないし、疲れているのだろう。どこかふらふらしている。 「理恵ちゃん、ごめんね、大丈夫?」 問われた言葉に素直に頷く。よかったと、マスターが息を吐く。 「英輔も」 「平気平気」 なんでもないように英輔さんが片手をひらひら振った。 二人ともさっきの真剣な空気がなかったかのように、いつものテンションだ。 「警察、呼んでくれてありがとう」 「いや、厳密には、呼んだのは常連ののっぺらさん。俺、ほら、後天的に作られた不死者だから、妖し界には属してなくて、連絡とれないからさ」 あー、そういえば、戦争のための生物兵器なんだっけ……。と、いつか聞いた設定を思い出す。 っていうか、のっぺらさんってのっぺらぼう? みんな顔があった気がするけれども、のっぺらぼうも居るの? 「そうか、今度お礼しとかないと」 マスターが呟いた。 「それじゃあ、ジャン・二宮は連行しますので」 マスターの後ろから警官が言う。 「お願いします」 「とりあえず、あとで警察署来てください。ああ、あと」 そう言って私の方を見る。首を傾げる。 「そちらの人間のお嬢さんの記憶はどうしますか? こっちに関わったわけですし、記憶を消すことも出来ますが」 警官は私を見ていたが、尋ねたのはマスターにだった。 消す? 記憶を? マスターがなにか返事をするよりも早く、 「やめてくださいっ」 叫んだ。考えると同時に、思わず口にでた。 驚いたように警官が私を見る。 「消さないで。誰にも言わないから」 お願いします、と頭を下げる。 せっかくマスターのことを知ることが出来たのに、忘れたくなんてない。わけわからないことはたくさんあったけれども、怖いこともあったけれども、忘れたくない。 警官はどうしますか? というようにマスターを見て、 「……今日のところは」 マスターは、押し殺したような声でそう言った。 「ああ、わかりました」 警官は頷くと、他の警官達と一緒に、ジャン・二宮を連れて、消えた。どこへともなく。 大鎌さんが立ち去る寸前、ひらりとセクシーに片手をふっていた。なにあれ……。 それにしても、ああ、よかった。よくわからないけれども、全部片付いた。 ほっと安堵の息を吐き、マスターを見る。 「マスター?」 マスターは困ったような顔をしていた。全部終わったのに。 「あっ、そうだ。エプロン燃やしちゃってすみません!」 お店のものなのに。 「弁償します!」 「いいよ」 マスターがゆっくり首を横に振った。 「もう使わないから」 「……へ?」 マスターは私に視線を合わせることなく、淡々と言った。 「もう明日から来なくていいよ。今までありがとう」 そこで少し視線が合う。 「本当にありがとう、理恵ちゃん」 マスターは少しだけ微笑むと、今度は英輔さんに、 「理恵ちゃん、送って行ってあげて」 「わかった」 英輔さんは淡々と頷く。 え、ちょっと待って。今の、何? 「じゃあ、俺、警察署行くから」 そういってマスターが歩き出すのを、 「マスター!」 慌てて声をかける。マスターの歩みはとまらない。 「え、来なくていいって、私、クビなんですか!?」 「そっちの方が、いいでしょ」 マスターはそれだけ言うと、私の返事も待たずに消えた。 |