その晩、夢を見た。
 黒男に襲われる夢。
 でも、それはまだいい。だってあいつは嫌いだし、怖かったから。
 それに、マスターが助けてくれたから。
 マスターは、大きな口をあけて私に噛み付こうとする黒男を、その前脚で突き飛ばして助けてくれた。夢の中でも、助けてくれた。
 ほっと、安堵の息を吐く私に、狼のマスターが近づいてくる。ゆっくりと。
「マスター」
 私が呼びかけても、マスターは返事をしない。
「……マスター?」
 なんだか不穏な空気を感じとって、もう一度呼ぶ。
 マスターは何も言わず、次の瞬間、黒男をはじきとばしたのと同じように前脚を振り上げ、私に振り下ろした。
 衝撃をうけて、横に吹っ飛ぶ。
 ばんっと、地面に体が叩き付けられた。
 不思議と痛くはなかった。夢だったからだ。
 だけど、息ができなくなった。
 頭からの、ぬるっとした感触。血が出てきたことがわかる。
 マスターがゆっくりと、私に近づいてくる。
「だから、俺言ったよね?」
 へらへらと笑った英輔さんが、倒れている私を、頭から覗き込むようにしながら、ひょうひょうと言った。
「狼男は人を喰うから気をつけな、って。年長者の言うことは、聞くものだよ?」
 小さな子どもに言い聞かせるようにそういうと、英輔さんはどこかに去っていた。
 助けてはくれない。
 動けない私は空を見上げていた。
 夜。曇っていて月は見えない。
 狼のマスターの姿が近づいてくる。
 大きく口をあけて、私を。
 食べた。

「いやぁぁぁ」
 私自身の悲鳴で目が覚めた。
 体を起こした場所は、見慣れた自分の家、私の部屋だった。
 ベッドの上で両手を見る。しっかりとついていた。
 ああ、夢か。そこでようやく理解して、立てた膝に顔を押し付ける。
 怖いと思ってしまった。マスターのことを。
 夢の中とはいえ、夢の中だからこそ。
 がくがくと震える手を、握りしめて押さえる。
「こわくないこわくないこわくなこわくないこわくない」
 だって、マスターが優しいこと知っているから、怖くない。マスターがあんなことするわけない。
 必死に自分に言い聞かせる。
 本当に?
 本当にそう思っているのならば、あんな夢見ないんじゃないの? 心のどこかで怖がっているからあんな夢見るんじゃないの?
 そんな反論も聞こえる。私の中から。
「ちがうちがうちがう」
 ベッドの横にある棚に手を伸ばす。その上の小さなトレー、その中のペンダントをひきずりだすと、ぎゅっと握った。
「ピラマ、パペポ、マタカフシャー。ピラマ、パペポ、マタカフシャー」
 必死に唱えると、心を落ち着けようと何度も何度も深呼吸した。

 結局、ちっとも眠れないまま朝を迎えた。少しでもうとうとすると、同じような悪夢を見てしまう。
 ぼんやりした頭で、今日が土曜日なことに感謝した。学校、休みでよかった。
「理恵、あんたバイトは?」
 母の何気ない言葉が、ちくりと胸に刺さる。クビにされたんだよ、お母さん。
 でも、そんなこと言えなくて、
「改装工事でしばらくやすみ」
「そー、珍しいわね。じゃあ、ちゃんと勉強しなさいよ。あんたは、いつもいつもバイトバイトってね」
 そのまま始まった小言を聞き流す。
 でも、考えてみたら、まったく予定のない土曜日なんて久しぶりかもしれない。悲しいことに。
 勉強するから邪魔しないで、と母にいって、部屋にひっこむ。
 床に座り、ベッドに背中を預けるとクッションを抱える。
 ちゃんと考えなくっちゃいけない。
 英輔さんが言っていたことの意味。化け物と一緒にいる、という意味。狼男が人を喰う、ということ。
 ちゃんと考えなくっちゃいけない。
 でも、考えようとするとあの悪夢の映像がでてきて、怖くなる。あんなの、夢だとわかっているのに。
 考えなくちゃ考えなくちゃと思っているだけど、無意味に時間は過ぎていく。心が焦るけれども、気持ちは先に進まない。
 そうしていると、
「理恵、お客様ー」
 母の声がした。
 お客様?
 部屋のドアをあけると、ドアの前で母がなんだか不思議そうな顔をしながら、
「大鎌さんって知っている? なんだか、美人のお姉さん」
 おおかま……? なんか、聞いたことがあるような…….
「あ」
 カマイタチの人?