餡蜜を食べて、片付けも終えると、英輔さんと連れ立って店をでる。店の鍵は、三人とも持っている。
 私の家はここから、歩いて十五分程の道のりだ。大通りも通らないけれども、そこまでの裏道も通らない。
「……なんか、すみません」
 マスターの言いつけどおり、ちゃんと送ってくれる英輔さんに声をかけると、
「別にー」
 へらっと笑われた。
「どうせ夕飯買いに行くし。今日、あのコンビニ新しいスイーツでるんだよねー」
 そうしてどこまでも英輔さんなことを言う。さっき餡蜜食べていたのに、まだ甘いもの食べるのか。
「……マスター、大丈夫かな」
 餡蜜からマスターが連想されて、思わず呟く。あの男なんか怪しかったし、あんな真面目な顔したマスターはじめてみたし。
「沢村さんなら大丈夫だよ」
 のんびりと英輔さんが言う。何を根拠に。
 無責任に感じられるその言葉に、じと眼で睨むと、
「理恵ちゃんが思うより、あの人しっかりしているし強いよー」
 同じ口調でそう言われた。
 それになんだか、頬がかっと熱くなる。
 なんで出会って少ししか経っていない人にそんなこと言われなくちゃならないの? 私の方がずっと長く、マスターと一緒にいるのにっ。
 胸中にうずまく苛立ちに背中を押されて文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけると、
「あ、今むかついたでしょー」
 それよりも前にあっけらかんと言われてしまった。そんなことを言われてしまったら、それ以上何もいえず、口ごもる。だからといって苛立ちは消えず、英輔さんを睨むようにして見上げる。
 彼はなんだか楽しそうに笑っていた。
「理恵ちゃんは本当わかりやすいねー。沢村さん好きなこともモロバレだったし」
「私は別にっ」
「そんなにムキになると感じ悪いよ」
 さらっと言われて、抗議の言葉はまた飲み込まれる。何だというの、本当。
「沢村さんもまあ、気づいているよね。気づいていて得に牽制もしないっていうことは、まあ悪い気はしてないんだろうけれども。そんで理恵ちゃんも、そんな沢村さんの気持ちを知っていて乗っかってるよね」
「は?」
 笑いながら言われた言葉が、本気で理解できなくて問い返す。
「あれ、無自覚?」
 驚いたような顔を英輔さんがする。それは私の表情だ。
「沢村さんに対して普段あんなにぼろくそ言うのは、沢村さんが怒らないであろうということを知っていて、それを利用しているからでしょう? 優しさや思いに甘えて。嫌われるかもしれないこと、その自信がなかったら怖くて出来ないよ」
 好きな子をいじめちゃう、小学生男子でもあるまいし、と英輔さんが笑う。
 私は。
「……私は」
 私は、結局何も言えずに英輔さんの横顔を見つめた。
 確かに、マスターが怒らないであろうという思いはあった。それは、甘えていたのだろうか。
「自覚的にしろ無自覚にしろ、理恵ちゃんはなかなか強かだよね。俺を雇ったこともそうだけど」
「え?」
「理恵ちゃんさ、俺を雇ったのは沢村さんのためみたいな顔しているし、まあ実際のところそうだろうけどさ、同じ状況下で俺の性別が違ったら、絶対そんなこといいださなかったでしょう?」
「……そんなこと」
 だってあの頃のマスターは毎日仕事で疲れていて、休んでいて欲しいなって思っていて、だから新しいバイトが入ればいいと思っていた。
「だってバイトの子、新しく入ってもなんかあわないとか言ってすぐやめちゃうし。だから」
「だろうねー」
「だろうねって何……」
「うん、だからそれも事実だと思うよ。だけど、理恵ちゃん、想像してみて? 俺がすっげー可愛い、街行く男達が絶対振り返るような女の子だったら、雇いましょうよ! って言った?」
 言われて想像してみる。
 考えるまでもなかった。
 英輔さんがそんな人だったら、お引き取りを願っていた。だって嫌だもの。そんな人いれるの。マスターがとられてしまいそうで。
 私が結論に達したのを読み取ったのか、英輔さんが言う。
「だから理恵ちゃんは強かだね、って言ったわけ」
 確かに。確かにそのとおりだ。自分の都合で動いていた。
 ああ、だけど。そんなことわざわざ言われるとは思わなかった。
「……英輔さんは」
 両手で口元を覆うと、一つゆっくりと息を吐く。いきなり頭を殴られたみたい。心が脳震盪を起こしそう。
「言いにくいことをずばずばいいますね」
 かろうじてそれだけ、言葉を吐き出すと、
「まあ、百年以上生きてりゃねー」
 笑いながら言われた。ああもう、その設定はもういいってば。
「なんか落ち込んでいるみたいだけど、別に強かでもいいじゃん」
 黙り込んでしまった私に、フォローするように英輔さんが言う。
 良いか悪いかじゃない。自覚していなかった部分を目の前に晒されて、落ち込んでいるのだ。百年以上生きているならば、そこらへんの機微も読み取って欲しい。
「んー、ごめんね?」
「いえ」
 かろうじてそれだけいうと、もう一度深呼吸。それから顔をあげた。
「英輔さんが女の子じゃなくてよかったです」
 そうして挑むように告げると、英輔さんは一瞬驚いたような顔をしてから、楽しそうに笑った。
「いいね、理恵ちゃんのそういう強気なところ。俺、気に入っているよ」
 くつくつと笑う。
「だから、沢村さんと理恵ちゃんがくっつけばいいのになーって思う」
「……それはどうも」
 さっきの今では素直に喜べないが。
「ってかさ、理恵ちゃんは沢村さんのどこが好きなの? 年齢差あるし、店での様子で惚れるところはないよね」
「そりゃあ、店で惚れるところはないですね」
 ぐうたらしているから。
「……中学の時に、ちょっと友達と揉めたことがあるんです。まあ、今にしてみればどうでもいい行き違いだったんですけど」
 イジメという程ではない。もっとささやかで、だけれども当人達よりも外に広がってしまった仲違い。
「簡単に言うと、しばらくクラスの女子にハブられることになったんです」
 ハブられるというのも、そこまで適切ではないかもしれない。ただ、なんとなく、輪から爪弾きにされた。教室移動やらトイレやら、誰かと一緒に行っていたことが、一人でやらざるを得なくなった。
「さすがに結構つらくって。で、そんな中で誕生日が来たんです、私の」
「……それはそれは」
「いつもならみんな祝ってくれてたんだけど、勿論そんなのなくって。おめでとう、ぐらい言って欲しかったのにそれもなくて。帰り道、誕生日なのに今日誰とも話さなかったなって思ったら泣けてきちゃって。まっすぐ帰ったらあの子達と一緒の道だから、わざと違う道で帰って」
 異様だったと思う。中学校の制服を着た女の子が、子どもみたいにぽろぽろ泣きながら歩いている光景なんて。
 そのころはキーホルダーにしていたペンダントを握って、小さく何度も何度も呪文も唱えていた。更に、変な光景だったことだろう。
「そこで会ったのがマスターなんです」
 どうしたの? とおっかなびっくりかけられた声を覚えている。滲む視界でそちらを見れば、困ったような顔をした男の人が居た。黒いサロンを巻いた、今となっては見慣れた姿のマスターが。
「なんでもないです、ごめんなさいって謝って。だけど、マスター、それじゃあ許してくれなかった」
 なんでもなくはないでしょう、って呆れたように笑っていた。それから、背後の建物を指差して、
「ここ俺の店なんだけど、よかったら顔ぐらい洗っていったら?」
 なんて笑っていた。あの頃は今と違う場所にあったし、甘味処というよりはカフェだった。
 確かにこのままの顔で家に帰ったら、母に何を言われるかわからない。お店の中には他にもお客さんがいて、変なことにもならないだろう。そう思ったから、素直にその言葉に甘えた。
 トイレを借りて、顔を洗って戻って来ると、
「あ、それ、失敗しちゃったやつなんだけど、よかったら食べてって」
 なんて言われた。フルーツパフェ。お金ないです、いいよいいよただだから、だけど悪いです、いいからいいから。そんなやりとりを繰り広げて、マスターの「アイスが溶ける」の一言に背中を押されて、私はありがたくそのパフェを頂くことにした。
 甘くて美味しくて、また少し泣きそうになった。
「……私、今日誕生日なんです」
「へー、おめでとう」
 マスターがなんでもないように言ってくれるのがとっても嬉しかった。
「なのに良いことなくて落ち込んでたけど、元気がでました。ありがとうございます」
「それはよかった」
 と笑った顔に、きっともう魅せられていた。
「お礼しようと思って、別の日に行こうと思ったらお店もうみつからなくって。いつもと違う道を、しかも泣きながら歩いていたからなんですけど……。誕生日に会った素敵なお兄さん、の思い出として大事にしていたんです」
 仲違いしていた友人たちとも、気づいたらまた元のように話すようになっていた。そのまま、高校生になってバイトを始めようと思った時。見つけたのが大和撫子だった。
「ここに決めたのは本当に制服が可愛いと思ったからだけで、まさかマスターがいるとは思ってなかったんですけど」
 くすりと笑う。面接の時、店長です、と名乗った男性になんとなく見覚えがあって黙って顔を見つめた。思い出したのは同時で、漫画みたいに指差し合って確認した。あれはおもしろかった。
「だけどもう、これって運命だよな、って思っちゃって」
 戯けてそう言うと、英輔さんが苦笑いした。
「なるほど、運命ね」
「……バカにしました?」
「してないよー。理恵ちゃんは鈍いところもあるなーって思ったの」
「やっぱりバカにしている!」
 そんな話をしている間に、自宅の前までたどり着いた。
「あ、ここです」
「あ、そう?」
 マンションのエントランスで、英輔さんに軽く頭をさげる。
「わざわざありがとうございました」
「いいえー。がんばってね」
 含み笑い。
「……はい」
 それに苦笑いで答えた。
 そうして、
「だけど気をつけた方がいいよ、理恵ちゃん」
 それじゃあと片手を上げかけた私に英輔さんは真面目な顔をして言った。
「何をです?」
「狼男は人を喰うから」
 風に攫われそうな声で英輔さんがそう言い、
「……はぁ?」
 私は素っ頓狂な声をあげた。狼男? 人を喰う?
「まあ、平気だとは思うけどね」
 英輔さんは私の態度なんて意に介さず、いつものへらっとした笑みを浮かべると、じゃあねーと片手を振って、立ち去ってしまう。
「え、ちょっと、英輔さんっ!?」
 追いかけようかとも思ったが、思ったよりも彼の足は速い。ただ歩いているだけなのに。
 それに追いかけたところではぐらかされるだけな気がするし。
「意味わかんないっ」
 誰もいないのを良いことに、強い口調でそう言い切ると、家の中に入った。