「ねぇー、ここなー。最近なにかあったぁー?」
 お店の女の子の言葉に、ここなは首を傾げた。
「何か?」
「いいこと。男でも出来た?」
「そんなこと、ありませんよー?」
 笑って言葉を返す。
「最近、機嫌いいから」
「それ、最近みんなに言われるけど、なんでですかねー。なんにもないのにー」
 ここなはさらりと流すと、私服に着替えた。
「それじゃあ、お先でーす」
 微笑んでその場を立ち去る。
「あたし、あの子きらーい」
 後ろから聞こえてきた声は、聞こえないふりをした。

 夜道を歩きながら考える。
 昔から、何故か同性には嫌われた。男に媚びを売っていると言われて。別に、そんなつもりなかったのに。
 かといって、男にモテたわけでもない。男性に相手をされるようになったのは最近だ。
 学生時代の自分は、暗かったな、と今なら思う。
 心中という言葉の意味を理解し、母親に対してなんていう名前付けてくれたんだ、と思ったころから、特に暗くなったと自分でも思う。
 卑屈になった。卑屈になれば卑屈になるほど、おもしろがっていじられた。考えてみたらいじめではなかったのだろう。彼らにしてみれば、変な名前のクラスメイトをいじって遊んでいただけだったのだろう。
 だけど、近松と呼ばれるのも、いつ死ぬのかと聞かれるのも、あの時のここなには本当に堪え難い苦しみだった。
 大人になって、気がついた。名前について親の学のなさとか、だから近松って呼ばれていたことなどを面白おかしく話す。それだけで、みんな面白いぐらい簡単に同情してくれることに。
 ポイントは面白おかしくしながらも、それでも少し自分が傷ついたことを示すことだ。重過ぎる話はひく人も、このレベルならうまく対応してくれる。
 同情してお客になってくれるのは、純粋に嬉しいし、ありがたい。
 それでも、同情されるたびに少しずつ自分の何かが削られていく気がしていた。多分、京介の言うところの、自尊心が。
 本当に不幸な人間を見たら気を使わなければいけない。気軽に可哀想なんて言えない。だけど、ここなの話レベルの可哀想な話ならば、ここなちゃんは大変だったねと言って同情するふりをすればいい。そうして彼らは思うのだ。世の中には可哀想な人間もいるものだ、自分に比べて。
 他人の不幸で自分の人生の幸せを実感する。そのために、ここなの自尊心は消費されていく。
 それも今では特に何も感じない。きっと、削られ過ぎて自尊心が無くなったのだ、と思っている。
 それでも京介が過度な同情をしたり、同情した自分に酔ったりしないでいてくれることは嬉しい、と思う。
 優しく慰めてくれるようなことをしたのは、結局花火大会のあの日だけで、あとは特にいつもと変わらない。口を開けば心中はしない、と言い張る。
 そうやってひきずらないで居てくれるところは嬉しいけれども、劇的に変化しない関係に少し苛立ってもいる。
 来年も来よう、という彼の言葉は聞こえていた。それでも、聞こえないふりをした。
 本当は、彼がずっと傍に居てくれるなら、このまま頑張って生きていこうかな、と思ったこともある。
 でもその度に、そんな自分を戒める。
 いまのままずっと、が続くわけないのだ。だから人は離婚をするのだ。結婚でさえも、二人の愛を縛り付けてはおけない。
 そうじゃなくても、いつかはどちらかが死ぬのだ。死に別れるのだ。
 それならば、愛がもっとも輝く時に、輝くまま終わらせるべきだ。
「一緒に死にましょう」
 唇だけで呟いた。

 いつもの地下道に通りかかる。灯はいつの間にか、新しいものに変えられていた。今日も壁の女の子が笑顔を浮かべている。
 笑っているのに、何故か気味が悪い。嫌いじゃないけど、薄気味悪い。いつもと同じことを思い、通り抜ける。
 ふっと、背後に気配を感じた。
 少し遠くに、誰かいる。足音がある。
 ここなは数歩自然に階段をのぼり、一気に駆け上がった。後ろの足音もそれに合わせて早くなる。
 かかかか、と自分の足音が地下道に響くのを感じながら、階段をかけあがり地上にでる。後ろはふりかえらない。
 そのまま走って、自分のマンションに逃げ込んだ。
 エレベーターの代わりに、横の非常階段を四階までかけあがり、慌てて鍵を開ける。
「おかえりー。どーした、慌てて?」
 いつもの調子で京介が出迎えてくれた。
 先に寝ていていいと、何度も言っているのに、京介は絶対にここなが帰宅する時間には起きている。たまに、その前に眠っていた気配があるので、わざわざ起きてくれているのだろう。
 そこまでしなくていいのに、と思う。そんなに気を使ってくれなくていいのに。
 それでも、家に帰ると人がいて「おかえり」と言ってくれるのは、部屋に明かりがついてるいのは、やっぱり安心する。
 こんな時は特に。
「うーん、ちょっと」
 後ろ手で鍵をかけ、チェーンもかける。
「なんか、やっぱり尾行されてるかなーって」
 淡々と呟いた言葉に、
「はあ?」
 京介が怪訝な顔をした。
「何それ? ストーカーってこと? マジ? 危ないなー、平気? 相手誰だかわかる? いつから?」
 立て続けに並べられた質問に、
「キョースケがくるちょっと前ぐらいからあって、毎日とかじゃなくてたまにだから偶然かなーとは思ってたんだけど。やっぱり偶然じゃないかも」
 靴を脱いで部屋にあがると、眉根を寄せた京介がソファーから立ち上がって近づいてきた。
「大丈夫? 平気? やっぱり夜道危ないって。どこで?」
「うーん、なんかいつも地下道で待ち伏せされてる、気がする。週一ぐらいで」
「だから地下道危ないって言っているじゃん」
 少し苛立ったような声。
 それに思わず、少しだけ笑ってしまう。嬉しくて。
「何笑ってんの?」
「笑ってない。怖かったの」
 そう言ってちょっと抱きついてみる。彼は困ったように手を動かして、結局突き放したりはしなかった。
 決して、背中に手を回してくれたりもしないけれども。
 以前は、最初は、あんなに突き放したものの言い方をしていたのに。心配だとか、危ないとかいいながらも、どこか距離をとっていたのに。
 それが今は、心配してくれる。
 悲しいぐらいに。
「地下道通らないように」
「んー、わかったー。近道なんだけどなー」
 頭の上からふってきた声に、体を離し、唇を尖らせてみせた。
「ココ」
 窘めるように名前を呼ばれて、肩をすくめる。
「わかってる」
 怖かったのは事実なのだから。心配されるのが痛くて悲しくても、心配されたかったから我が侭を言ってみただけだ。
「ならいいけど」
 まだ少し、どこか納得していないような顔をしながらも、京介は頷いた。
「っていうか、俺よく知らないからイメージだけど、送迎とかってあるもんじゃないの? ココとかの店って」
「んー、ないこともないけど、私、家近いからさ。だってほら、歩いて十分だもの」
 微笑んで見せるけど、京介の表情は和らがない。険しいままだ。
 その表情に気持ちが焦る。お願い笑って。心配はして欲しいけれども、そんなに険しい顔をされるのも不安になる。私のこと、嫌いなんじゃないかって。
「じゃあ、危なくなったら連絡するから迎えにきて」
 だから、いいことを思いついた、と両手を打ち合わせる。いつもの明るさで。いつものように少しおどけて。
「連絡って」
「電話するから」
「どこに?」
 真顔に問いかける京介に、ここなは少し固まる。
 ここなの家には固定電話はない。
「……そういえば、今まで一度も聞いたことないけれども、キョースケ、ケータイは?」
「持ってないよ」
「……なんで今時ケータイも持ってないの?」
「ケータイ持つお金があったら他のことに使うし」
 沈黙。
「……まあ、今までこの点に気づかなかった私がバカだわ。今度一緒に買いに行きましょう。安いのでいいわよね?」
「別にいらな……」
「私がピンチの時に助けにきてくれないの?」
 真顔で言い切る。
 内心では会話の矛先を変えられたことに安堵していた。
「俺、ヒーローじゃないんだけど」
 小さく呟きながらも、それでも京介は頷いた。