どうしても、仕事中も上の空になってしまう。 京介は、帰ってきてくれただろうか。 「ここなちゃん?」 「あ、ごめんなさい、久慈さん」 慌てて微笑み、空になったグラスを受け取る。 京介は、帰ってきてくれただろうか。 仕事が終わって、足早に帰る準備をする。 「お先に」 「あれー」 帰ろうとしたここなを、店の女の子の声が遮った。 「あたしの財布がなぁーい」 「えー」 「あ、あたしのも!」 「うそ?」 一気に広がって行く声に、何が起きているのかわからなかった。 ただ黙って、ここなは周りの子達の騒ぎを見つめる。 やがてゆっくりと、一人、二人、三人と、視線がここなに向けられる。ついには全員の。 「ちょっと、待って」 声が震える。 周りの視線が痛い。その視線が意味することは。 「なんで、私が」 「盗まれてないの、あなただけじゃない?」 「じゃあ、あなたが犯人だ」 「ねえ、そうじゃない? し・ん・じゅ・うちゃん?」 にっこりと赤い唇をあげる。 その呼び名に、かっと頭が熱くなる。 「何を、言って」 言い返すよりも早く、肩にかけた鞄をひっぱられた。 「ちょっ」 身をよじる。 目の前の女がにやりと笑う。この前、嫌いと言ったあの女。 抵抗も空しく、鞄が宙を舞う。 中身がひっくり返る。 ばらばらと出てきたのは、見たこともない財布の数々だった。 「な、んで」 小さく唇だけで呟く。 傍観していた女の子達が、各々の財布を慌てて取り上げ、非難するようにここなをみる。 「盗人」 「違っ」 「さいてー」 「なんで、私がっ」 「言い逃れするの? 証拠も出てきたのに」 「私じゃ、」 「じゃあ、誰かがいれたとでもいうの?」 「被害者ごっこ?」 「し・ん・じゅ・うちゃん?」 目の前の女が笑う。 悪意だけで。 「そんな風に、呼ばないで」 「何言ってるの? いつもあなた自分で言ってるじゃない。名前ネタにして、同情誘っているじゃない。ねぇ、そういうの楽しい?」 「そんなにその名前が好きなら、さっさと死んじゃえば?」 主犯は三人、とこんな状況でもどこか冷静にここなは思った。目の前のこの三人が犯人で、あとはただの巻き込まれただけの人だ。 つまり、それは、他の全員はここなが財布を盗んだ犯人だと思っていて、それを疑ってもいないということだ。 誰も助け船をださない。 それどころか、悪意で見てくる。 「あら、何これ?」 こつっと赤い靴がジッポを蹴った。今日買ったばかりの、京介とお揃いの、ここなの分。 身をかがめ、拾い上げる。 「あら、これ、ペアじゃない?」 「返してっ!」 思わず大きな声がでた。 楽しそうに女が笑う。 「へー、本命から?」 せせら笑う。 「返して」 「返してください、でしょう?」 「盗人猛々しい」 笑う。笑う。笑う。 周りの視線が痛い。 「……返してください」 小さい声で言うと、女は楽しそうに高笑いした。 「いいわよ、はい、どうぞ」 言って女はそれを高いところから、これみよがしに落とした。 慌ててそれを拾おうと身をかがめ、 「あら、よろけちゃった」 とヒールで踏まれた。 「っ」 息を飲む。 少し、蓋がひしゃげたそれを慌てて拾い上げる。泣きそうになるのを、耐えた。 こんなところで泣けない。 消えたはずの自尊心が、どこからか欠片だけでも現れた。ここでは泣けない。泣いてはいけない。 そのまま、散らかった自分の荷物を鞄にかき集める。 「まあ、財布さえ戻ってくれば別にいいんだけど」 「警察沙汰になんかはしないし」 「店長には言っとくから、もう店来ないでねぇ。し・ん・じゅ・うちゃん?」 くすくすと、笑う。 顔をあげられない。 「何の騒ぎ?」 顔を出した店長に、びくっと背筋が強張る。 「……ここな?」 「ご迷惑かけて、申し訳ありませんでした」 何か言われるよりも早く、そういって頭を下げた。 誤解を解くなんて、無理だと思った。ここなの味方なんていない。そんなもの、いたことがない。 「あ、ちょっと」 引き止める声を無視して、そのまま走って家に向かった。 「あ、おかえりー」 ドアを開けると、いつもと同じ京介の声がかえってきた。 帰っていたんだ、といやに冷静に思った。 「あのさ、ココ」 「……酔ってるね」 少しテンションが高い声に、そうやって言葉を返した。 そういえば、一緒にお酒を飲んだこともないな、と思った。 私は彼の何も知らない。今も。そしてこれからも。 お伽噺は終わった。王子様だって公務があるのだ。いつまでも町娘と遊んでいられない。お城に帰らなければ。 「ココ?」 「キョースケ、いつでも出て行っていいよ」 「え?」 不思議な顔をしている京介を無視して、ソファーに倒れ込む。 ソファーは少し、彼の匂いがした。 強く息を吸う。香りを逃がさないように。 「ココ、どうした」 背もたれ越しに、顔を覗き込まれる。 「仕事、クビになったから。衣食住の提供という約束、果たせそうもないから」 「は?」 京介の顔が近づく。 「クビって、なんで」 「私がみんなの財布を盗んだから」 「え……?」 京介の動きが止まる。ここなに向かって伸ばされた手が不自然なところで止まる。 「あなたも疑うの? 私、盗ってないのに」 思わず笑う。笑うしかない。 京介なら笑い飛ばしてくれると、思っていた。ココがそんなことするはずないって、京介なら言ってくれると思っていた。ああ、私、京介のことは、味方だと思っていたのか。頭の冷静な部分がそう告げた。 「疑ったわけじゃないっていうか、え、だって、盗らないだろ? そんな意味、ないもんな」 「意味ないってなによ」 「あれだけ預貯金がある人がなんでわざわざ他人の財布を盗む必要が?」 「あのね」 能天気な物言いに、思わずかっとなって顔をあげる。それでも、京介はどうやら真面目に言っているようで、そのまま再びソファーに顔を埋める。 思っていたのとは違うけれども、その承認は少しだけ嬉しい。やはり彼は私の味方なのだ。今は、だけど。 「私が邪魔だったんでしょ。私、女の子に嫌われるし。まあ、男性にも嫌われるけど、変人だから」 くつくつと笑う。 「だからって」 「まあ、ともかく」 寝返りをうち、仰向けになる。 逆光になるが、覗き込む京介が困惑しているのが見て取れた。 「キョースケ、出て行っていいよ。しばらくは平気でも、いつお金なくなるかわからないし」 「でていかないよ」 京介は呆れたように即答した。 何を言っているのだろう、とでも言いたげに。 「ココを置いて出て行って、どうするのさ?」 微笑む。 あまりにも当たり前に言うから、少し嬉しくて、それよりも腹がたつ。 「ねぇ、じゃあ」 腕を伸ばす。京介の首筋に手を回すと、ぐいっと自分の方に引き寄せた。 「心中してくれるの?」 近づけた顔、耳元で囁く。 「……それ、は」 京介が口ごもった。 いつもならばそこで諦めるけれども、今日はそんなこと出来なかった。 昼間はあんなに幸せな気分になれたのに。あっという間に転落してしまった。 ほら、幸せなんて長く続かないのだ。 だから、心中して終わりにした方が良い。 「じゃなかったら」 困っている京介に向かって微笑みかける。 「抱いて慰めてよ」 囁くようにして誘うと、 「ココ」 たしなめるように名前を呼ばれる。 「そういう冗談はやめた方が良い」 露骨に顰められた眉に、胸が痛む。喉の奥に、なにか大きな固まりがひっかかっている感じ。上手く呼吸が出来ずに息苦しい。 「本気だよ」 「……ココ」 伸ばされた手が、軽く髪を撫でた。 それだけだ。 「……もういい」 腕を離すと、ソファーから立ち上がった。 「ココ」 「忘れて」 困った顔をしたままの京介に笑いかける。いつものように。 「忘れてって……」 「あ、でも出て行っていいのは本当だから」 ね? と首を傾げた。 「私、もう寝るね」 おやすみ、とここなは部屋へ向かう。 京介が何かを言おうと口を開きかけたのを横目で見ながら、逃げるようにドアを閉めた。 |