結局、と手早く卵を混ぜながら京介は思う。
 溶いた卵を、バターを溶かしたフライパンに流し込む。
 結局、ここなの家に泊まって、翌朝律儀にご飯なんて作っているあたり、夜中にこっそり出て行ったりしなかったあたり、多かれ少なかれ彼女に好意があるのだろう、と思う。
 まあ、確かに好みの顔なのだけれども。どストライクというか。
 でも、好意というか、
「ほっとけないしなー」
 どこまで本気で言っているのかがわからないところが怖い。
 いずれにしても、心中を夢見て生きているなんて人間、一人で放置するのも気が引ける。死ぬために生きるなんて。
「俺って本当、お人好し」
 小さい声で愚痴ると、出来上がったスクランブルエッグをお皿に載せた。
 本当は、レタスかなにかを添えたがったが、野菜室にあったのはしわの寄ったトマトだけだった。
 お人好しというか、ただのバカだ。わざわざ深くかかわったって碌なことないのはわかっているのに。
 冷凍庫でかろうじて冷凍保存されていた食パンをトーストし、三角形に切ると、スクランブルエッグの傍に添える。
 出来上がった朝食をテーブルにセッティングした。
 1LDKの部屋、ここなの寝室をノックする。
「中曽根さーん、朝ご飯できましたけどー?」
 返事はない。
「中曽根さん?」
 もう一度。
 ばたんっ、と中で大きめの音がした。ドアから数歩離れる。
「ここな」
 ドアを開けながら、ここなが言った。
「ここなって呼んで、って言ったでしょ?」
 昨夜のように可愛い子ぶるわけでもなく、淡々と言う。
 乱れた髪が顔にかかっている。怖い。
「すみませ、ん……」
 思わず謝る。
「朝?」
「ええっと、朝です」
「何時?」
「七時……」
「はやくねっ!?」
 それまで重たそうに細められていた目が、突然くわっと開いた。びくっと、京介は身を引く。
「七時ってあなた、私昨日寝たの三時なんだけど」
「ええ、まあ、知ってますけど……」
 何故か、敬語になる。
「なくね? それでなんで七時に起こすの?」
「お仕事とか……」
 あるんじゃないかなーとごにょごにょと語尾を濁す。
「仕事? あなた、私が九時五時の仕事についていると思っているの?」
 鼻で笑われた。
 正直、夜中の二時に明るい茶髪の巻き髪、まつげばっさりどっさり、フリフリのミニスカで歩いている女性が、堅気の職業だとは思っていなかった。
「いや、それは……」
 だからといって、素直にそれを言うのも躊躇われ、京介が言葉を濁していると、
「キャバ嬢なんですけど」
 屈託なく、ここなが答えた。
「わかる? キャバクラ」
「……ですよねー」
「ですよねーって何」
 大きなあくびを一つして、右手で顔にかかった髪をかきあげる。隠れていた顔が現れる。
 昨夜のように、ぱっちり二重に、ばしばしまつげではない、すっぴんの顔。
 化粧ばっちりの顔も、自分の顔の特性をよくわかっていて可愛かった。自分の顔の利点を強調するような顔。
 でも、こっちの顔の方が可愛いのにな、とりあえずより好みなんだけどな、とどうでもいいことを京介は思った。
「それで、朝ご飯?」
「ええっと、はい」
 もう一度大きくあくびして、ここなはダイニングテーブルにつく。
「あ、スクランブルエッグにトマト入ってる」
「あー、トマトお嫌いで?」
 どうしても下手に出てしまう。
 考えてみたら、家主の嫌いなものが冷蔵庫に入っているわけないのだけれども。
「ううん、珍しいなって思っただけ」
 いただきます、と両手を合わせてここなはフォークを握った。
「食べるは食べるんだ……」
「人の作ったご飯とか、十年ぶりぐらいだし。お店以外では」
 京介の小さなぼやきに、ここなは澄まし顔で答えた。
 寝起き自体は悪いわけではないようで、もう先ほどのような眠そうな顔はしていなかった。はきはきとしゃべる。
「む……」
 フォークを口にくわえたまま、ここなの動きが止まる。
「あ、あれ? 美味しくない?」
 思わずおどおどと尋ねると、
「スクランブルエッグって、こういうのだったっけ? なんかもっとこう、味気ないものだった気がするんだけど」
 上目遣いで京介を見る。
「ふわふわで美味しい」
 そのまま微笑んだ。
「あー、よかった」
 それに安堵する。タイミング良く沸いたお湯で、紅茶をいれる。
「ってか、勝手に台所使ってすみません」
 それをここなの前に置き、自分もここなの正面に座った。
「ううんー。寧ろよく材料あったねー」
「うん、寄せ集め」
 米もないのかよ、この家、と思ったのは内緒だ。
 というか、消費期限ぎりぎりの卵と、トマトと、食パンと、お漬け物しかなかった。お漬け物は何故か、種類豊富だったけれども。
「キョースケ、お料理上手なんだねー」
 すっかり昨夜のきゃぴきゃぴしたトーンに戻ったここなが、小首を傾げながら言う。
「以前、料理人の見習いっぽいことしてたんで。あのときは、本当にそっちの道を究める予定だったんだけんだなぁ」
 後半は小さい声でぼやきながら、いただききますと自分の分に手をつける。
「ふーん。なんでやめちゃったの?」
 京介は少しためらってから、
「料理長の奥さんに惚れられて、ごたごたしたんで」
 出来るだけ淡々と答える。
「んー、そりゃぁ、大変だー。キョースケかっこいいもんねー。優しいしねー、モテちゃうかもねー」
 さも当たり前のようにかっこいいとか言われて、京介は紅茶を吹きそうになった。
「でも、それキョースケ悪くなくない?」
 そんな京介に気づくことなく、ここなは言う。
「たぶらかした、思わせぶりな態度をとった俺が悪いんだって」
 さっきのは営業トーク的なもの? 内心で首を捻りながら答える。
「ちょっと人間関係のごたごたに疲れちゃって。人付き合いは好きだけど。あの店、住み込みだったから住むところもなくなっちゃって。それでまあ、気づいたらあんなとこにいたんだけど」
「大変だったね。あ、でも実家に帰るとかはないの? 私としてはなくていいんだけれども」
「さり気に酷いこと言うね。いや、……俺、割と早い時期に両親亡くしてるから。それなりに俗っぽく言うと、天涯孤独の身の上ってやつ?」
 少し躊躇いつつ、口にした言葉に、
「あら、一緒ね」
 ここなは当たり前のように微笑んだ。
「……あれだね、幼少期に親の、いやまあ親じゃなくてもいいけど。誰かの愛をちゃんと受け取らないと、人格破綻した人間ができあがるんだよね。俺もだけど」
 心中したい、なんていうとか。
「そうね、キョースケもちょっと変わってるわよね?」
「改めて言われるとむかつく」
「嘘よ。キョースケ優しいもの」
 ここながフォークを置く。
 そして、
「だから、心中しましょ」
 微笑む。
「しねーよ」
 間髪入れずにつっこんだ。油断をするとすぐこれだ。
「むー」
 口でむくれたような声をだし、頬を膨らませる。
「だから、これは俺からの提案」
 それを無視して、一晩考えたことを告げる。
「ん?」
「ここには置いてもらおう。正直、本当に行く当てないし。仕事もないし」
「うん、全然いていいよー。寝るとこソファーしかないけどー。まあ、一緒に寝ても良いけどー」
「それは遠慮しとく」
「いくじなしー」
「なんだ、その野次」
 呆れて笑う。少し、このやりとりが楽しくなっている自分がいる。
「ただ、心中して欲しいという中曽根さんの要望には答えられない」
「中曽根さんじゃなくて、こ・こ・な」
 一音ずつ区切って、ここなが訂正する。
「ここな、って呼んでって、言ったでしょう?」
「……とにかく、心中という要望には答えられない。だから、家政夫代わりに置いて欲しい。とりあえず、なんか仕事決まるまで」
「仕事探すって、ヤバい仕事はしないでねー。ヤクの売人とか?」
「しねーよ」
 心中はよくて、ヤバい仕事は駄目なのか。ここなの基準はよくわからない。
「とにかく、三食作るし、掃除洗濯もする。料理の腕にはそれなりに自信があるし」
「うん、うちの何もない冷蔵庫でこれだけ美味しいもの作れるなら、もっといいものつくれるよねー? それは楽しみー」
 お味噌汁とか、肉じゃがとか、ラザニアとか食べたいなーあとデザートもー、と子どもみたいに思いつくまま、ここなが言う。
「作る作る。だから、それで手を打ってもらえないか?」
 ここなは、しばらく考えるように宙を見て、
「ま、とりあえずそれでいいかなー。心中については、今後考えてもらってー。まず、恋をしないとだし」
 心中を譲る気はないらしい。
「……まあ、うん、譲歩してもらえるなら今はそれでいいや」
 京介も頷く。
「わー、じゃあこれから店屋物じゃなくて、作り立ての美味しいもの食べられるんだー。でも、もうこの時間に起こすのやめてねー。私いま、超眠いー今すぐ寝れるー」
「寝られる、な」
 ここなの大あくびに呆れながら訂正する。
「キョースケ、顔はいいのにモテないでしょ? そうやっていちいち、ら抜き言葉とか訂正する人は面倒だなー」
 微笑んだまま、ここなが言うから、少し胸を抉られる。
「まあ、モテるわけではないけども……」
 ごにょごにょと呟くと、
「でも、私、そういう真面目な部分がある人も好きだなー」
 トーストにかじりつきながら、ここなは言った。
「それは……、どうも」
 どう返事すればいいか悩み、軽く流す。
「あ、軽く受け流したー」
「流すだろ……」
「まあ、でもモテなくてもキョースケは私と恋仲になる予定だから別にいっかー。寧ろモテちゃったら大変だもんね」
「……勝手に決めるなよ」
 京介の言葉に笑みを返し、ごちそうさま、とここなは両手を合わせた。
「えっとね」
 ソファーの上に放り出してあった鞄を掴むと、中から財布を出す。財布を開き、しばし中を睨んだあと、
「うーんっと、いいや、これごと預ける」
「ちょ」
 無造作に渡された、ピンク色の財布に京介は慌てる。
「仮にも一応、ほぼ初対面の人間に財布丸ごと預けるなよ」
「いいのよ、これから心中する仲だし」
「しないし」
「誰かを家にあげた段階でそれぐらいは覚悟しているし、そのお財布もって逃げちゃうような人は、わざわざ早く起きてご飯作ってくれないもん。寝た時間一緒なのに」
 ね、と笑う。
「……まあ、逃げないけど」
「それに、私クレカ嫌いだから持ってないし、キャッシュカードも別のところにあるから、それぐらい持ち逃げされても困らないしー」
 あ、でもお財布気に入ってるからなー、逃げる際には中身だけ出してくれると嬉しいかなー、と真剣にずれたことを呟いた。
「うーん、まあ、とりあえず、預かる」
「うん。それでー、適当に必要なもの買ってくださーい。私ねー、カレー食べたい気がするー」
「思いつくままだな」
 呆れたように京介は笑う。その顔をみて、ここなも満足そうに笑った
「生活費的なことは、またゆっくり考えましょ? とりあえず、私」
 そこでまた一つ、大あくび。
「もう一回寝る。無理……」
 瞳がまた、とろんっとする。
「あー、はい。起こしてごめん」
「ううん。ごちそうさまでしたー」
 もう一度両手を合わせ、深々と礼をする。
「美味しかったー。お昼も期待ー。でも出来ればお昼は一時ぐらいにしてくださーい。寝まーす」
 早口で言うと、そそくさと部屋に戻った。ぱたんと、ドアが閉められる。
 その後ろ姿を呆れたように見つめ、京介は少しだけ口元がゆるむのを感じた。
 子どもみたいだからか、何故か憎めない。
「カレーか。まあ、冷凍しとけばいいし、大量に作って。ドリアとかにしてもいいし」
 呟きながら、立ち上がる。
 まずは、食器を片付けて。あ、でも、その前に洗濯物を洗濯機にいれてからの方がいいかな。
 洗面所に向かう。真新しい乾燥機能付きの洗濯機。洗剤は一応揃っていた。
 ただ、乾燥機の中には以前洗濯した服がそのまま入っていた。だらしないなーと思いながら開けて、
「あ」
 すぐ閉めた。
 洗濯物には下着という割と強敵がいることを思い出した。
 ここなのあの感じからは、気にしなさそうだけど、今日は保留にしておこう。
 さくっと決意すると、洗濯はとりやめる。
 とりあえず、自分の服だけをたらいを使って手洗いした。
 今着ているジャージは、ここなが部屋の奥から出して来たものだ。完全に男物だし、なにより、小柄なここなには合わないサイズ。
 この服の持ち主はどうしたのだろう? ここなとはどういう関係だったんだろう? 今は、どうしているんだろう?
 余計なことを考えそうになって、あわてて洗濯をする手に力をこめた。
 余計なことに首を突っ込んではいけない。ただ、家政夫として仕事に従事しよう。
 余計なことをしたら、誰もが無事では終われない。