「おはようございます」
 翌日、いつものように事務所に行くと、
「あ、硯先生」
 困ったような顔をして秘書の亜由美ちゃんが駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「あいつ、来てます」
 小声で囁かれる。
 ちらりと彼女が見ると、応接スペースに人がいた。
「やぁ、どうも、正義の弁護士先生」
 ここ最近、うんざりするぐらい見た顔に、げんなりする。
「またあなたですか」
 フリーライターだとかいう、気味悪い男。名前は、一番合戦弘明。大層な名前だ。
「何度いらっしゃっても答えはノーです。お引き取りください」
 鞄を亜由美ちゃんに託し、男と対峙する。
 この男は、何度も何度も私の依頼人の家族を取材したいとやってきている。とある殺人事件の被告人の家族を。
 つくづく家族を自宅から離れたところに避難させておいてよかったと思う。そうじゃなかったら、この男は直接家族の元に行っていたことだろう。
「あまりしつこいと、業務妨害で警察を呼びますよ?」
「おーおー、おっかないですなぁ」
 下卑た笑い。
「でも弁護士先生、殺人犯の家族なんかをどうして庇うんですか? 家族だって全員同罪だ。自分の家族が人を殺したのだから、みんなまとめて死刑になるべきだ。そう考えるのが普通だと思いませんか?」
「思いませんが?」
 一体、何時代の人間なのか。
「家族といえど、独立した別々の人格を持つ人間です。過度に責任を問われる必要はありません。仮にあったとしても、それを決めるのは私でも、あなたでもありません。法です」
「その法が間違っているんですよ、国民感情にあってない」
「そんな立派な主張があるのでしたら、政治家にでもなったらいかが?」
 それに、
「私の被告人は無罪を主張しています」
 正当防衛を主張しているのだ。そして、私の感覚では、その主張が認められる可能性は高いだろう。
「でもそれは無実ではない。あいつが殺したことにかわりはないじゃないですか」
「身を守るための行為でも殺人というのならば、あなたは黙って殺されるんですか?」
「私は他人に恨まれて、襲われたりしませんよ」
 一番合戦が笑う。嘘をつけ嘘を。誰よりも恨みを買っていそうな風態の癖に。
 イライラする気持ちを必死にどうにか押し隠しながら、
「とにかく! お引き取りください。そろそろ別の依頼人がいらっしゃる時間ですから」
「先生が」
 ええい、これだけ言っているのにまだ喋る気か!
 思わず睨みつけると、
「おお怖い。もう退散しますよ」
 おどけたように言う。いちいち癪に触る男だ。
「ですがね、先生」
 一番合戦は立ち上がると、
「先生が犯罪者を庇うのは、自分も犯罪者の娘だからじゃないですかね」
 にやり、と笑う。
「そうでしょう? わざわざ弁護士になんかなって」
 ああ、そうか。こいつは私のことも調べたのか。
「世間じゃ冤罪だってことになってますがね、どうせ本当は先生のご両親がヤったんでしょう? じゃないと自殺なんてするわけがない」
 私の心をそんなことでえぐったつもり? 
 一瞬揺らぎそうになる心を、自分で必死に繋ぎ止める。
 そんなこともう何百回も何千回も言われてる。私自身、疑ったことがないわけじゃない。
 それでも、もうそんな言葉には揺らがない。
「死にますよ、人は。たとえ無実であっても、心が折れたら」
 むしろ無実であるからこそ。
 昔は両親を恨んでいた。私を置いて逝ったことを。一人にしたことを。
 今は、悲しいと思っている。申し訳ないと思っている。私の存在は、両親をこの世に繋ぎ止める役割にならなかったから。心の支えにならなかったということだから。
 慎吾はそんなことないよって言ってくれるけど、やっぱり私は、私のせいだと思っている。
 そして、
「これは弁護士としてではなく、私個人としての発言ですが」
 念のため前置きをしてから、
「私の両親を殺したあなたたちマスコミが、私は大嫌いです」
 斬り捨てた。
 せめて、逮捕状が出るまで報道を控えてくれていればよかったのに、と思う。逮捕されてしまえば、あんな風に自殺することもできなかっただろうから。
 もちろん、一度逮捕されてしまえば、たとえ無実になっても世間の目は冷たかっただろう。それでも私は、二人に生きていて欲しかった。生きてさえいれば、もっと、違う道があったはずなのに。
 後ろから亜由美ちゃんの困ったような視線を感じる。
 一番合戦は何を考えているのかよくわからない顔をしてたが、やがて口を開きかけ、
「そろそろ事務所開きたいんですけど?」
 別の声がそれを遮った。
「上泉先生」
 上泉法律事務所のボス弁、私の上司のご出勤だ。
「出て行っていただけるかしら?」
 丁寧だけれども、有無を言わせぬ口調。
 ようやく一番合戦が事務所から姿を消した。
「あー、むかつく! 塩撒い時ますね!」
 亜由美ちゃんがプリプリしながら、入り口に向かう。
「あのねぇ」
 はぁ、と盛大にため息をつきながら、上泉先生がこちらを見てくるので、私はとっさに首をすくめた。
「なんであんな低俗なやつの挑発に乗っちゃうの? あなたはもう弁護士なのよ? あなたの発言が依頼人に迷惑を及ぼす可能性も考えなさい!」
「……はい。以後気をつけます」
 それは自覚があったので素直に謝罪する。いくら私個人の発言ですと断っていても、嫌いと言ってしまったことは消せない。
「でも、まあ」
 上泉先生はちょっとだけ表情を緩めると、
「よく泣かなかったわね」
 子供にするように私の頭を撫でた。
「……あの先生、私もう二十七なんですけど」
 無力で一人で泣いているしか出来なかった、小学生の女の子じゃないんだから。
「そうね」
 上泉先生は小さく微笑む。
「もう一人じゃないしね」
「はい」
 私の両親のあの事件、あれの担当検事が上泉先生だった。
 当時検事だった上泉先生は、もともと検察に不満があった。そしてあの事件で、決定的になって辞めたと言っていた。
「一人の無辜を罰するどころか、死なせてしまって、何が司法だ、法治国家だ、と思ったのよね」
 後年、そう言われた。私の両親は起訴どころか、逮捕すらされていなかったけれども、上泉先生には検察の失態と同義だったらしい。それ以来、上泉先生は刑事事件をメインに扱う弁護士になっている。
 両親を亡くした私の心配もしてくれた。弁護士になりたいという相談にも、親身になって乗ってくれた。試験に受かった時、雇ってくれるかと尋ねたら、
「こんな零細やめときなさいよ」
 と渋ったものの、最終的には雇ってくれた。
 零細だのなんだの関係ない。被告人の家族を守るための弁護士という、私の目的を達成できるのはこの事務所しかない。下手に大手なんて就職してしまったら、そんなこと絶対にできないし。
 一番合戦が言っていたこともわからなくはない。実際、弁護するのもためらうようなどうしようもない人間もいる。金持豪士のような。
 それでも弁護人をつけられるのは被告人の権利だ。それに、弁護人がいるからこそ、被告人の反省を促せる面もあると私は思っている。たとえ自分が悪いとわかっていても、周りから寄ってたかって詰られれば、ヘソを曲げてしまうこともあるだろう。誰か一人でも自分の味方になってくれる人がいれば心に余裕が生まれ、心からの反省が出来る。そんな風に私は考えている。
 そして何にしても、私が本当に守りたいのは被告人とその家族の関係だ。振り回されてしまった家族には、被告人と絶縁する権利もあるとは思う。そうだとしても、その場ですぐ決めるのではなく、落ち着いてしっかり考えてから決めて欲しい。そのためにもまずはマスコミから守りたい。家族が逮捕、起訴されただでさえ疲弊しているのに、あのフラッシュの嵐に巻き込まれるのは酷だ。
 実際、私は未だに写真が苦手だ。フラッシュを焚かれると、当時のことを思い出してしまう。ひどい時には動けなくなってしまう程度には。
 どんなに救いようのない人間でも、被告人の家族にとってはかけがえのない存在だ。絶縁するにしても、その縁は守りたい。決定権を家族に残したい。
 私はそう考えている。
 しかしまあ、この考えが一番合戦に伝わるわけないだろう。弁護士同士でも理解してもらえないことの方がほとんどなのに。
 ため息をつく。
 また次にあいつが来たらどうしよう。そろそろいい加減に業務妨害で警察呼ぼうかな、そんなことを思った。
 そして、その心配の必要はなかった。
 警察は向こうからやってきた。
 仕事を終えて帰ろうとする事務所にやってきたのだ。私の知らない顔だ。
「硯茗さんですね。少しお話をお聴きしたいので、署までご同行願えますか?」
「何の話か教えてくださってもいいのでは?」
 しかし、法律事務所にまでわざわざ乗り込んでくるとは。結構神経図太いわね。
「一番合戦弘明氏が亡くなりました」
「え?」
「誰かに殺されたようで。彼が最後に来たのは、この事務所のようなので。失礼ですが、一番合戦ともめていましたよね?」
「あー、なるほど。わかりました」
 心配そうにこちらを見てくる亜由美ちゃんに大丈夫だ、と片手を振って見せる。上泉先生がいなくてよかった。いたらこの警官に食ってかかっていたことだろう。
 そういう展開になってしまった以上、諦めるしかない。しかしこれは、ただの事件か、それとも、名探偵の効力か。名探偵の恋人の過去をほじくり返してきていたことを思うと、後者の可能性が高い。
「あの、一つお願いあがるんですけど。任意ですよね? 名探偵、呼んでもいいですか?」
 普通ならば弁護士を呼ぶところだが、幸か不幸か私自身が弁護士だ。法律関係は問題がない。
「はぁ?」
 どうやら、慎吾の話が回っていない所轄の刑事さんのようだ。私の発言に、心底怪訝そうな顔をした。

「なるほどー」
 結局刑事さんが渋るので、本庁の笹倉くんを通して慎吾を呼び出す。
 コネを利用している自覚はあるが、とはいえ一番合戦のことでまともに警察の取り調べを受けるほど暇じゃない。
 そしてやってきた慎吾が、刑事の話を聞いて呟いた。
「そりゃあ、茗ちゃんが怪しいじゃん」
 そして私を見て言う。
「自覚はある」
 過去を暴かれそうになった弁護士とか、いかにも記者を殺しそうだ。
「っていうかまあ、ここはまだ名探偵がでるほど事件が進展していない気もするけど」
 言いながら刑事さんの手から、捜査資料を取り上げる。
「あ、おい!」
「本庁から聞いたでしょ?」
 声をあげる刑事さんだったが、慎吾の一言で不機嫌そうに黙る。
「なんて言われた? うさんくさい男が行くけど黙って協力してやれ、的な?」
 ぺらぺらとそれをめくりながら慎吾が言う。
 まったく変な光景だ。取調室で刑事より偉そうな男がいるなんて。
「命令だと言われた」
 不本意そうに刑事さんが答える。
「そっか。まあ、今や本庁のお偉いさんも信じてるからね、名探偵の存在。それもミステリとしてはおかしい話だけど、実に合理的な判断だと俺は思うよ。そっちの方が事件が早く片付くし」
 刑事さんの口が小声で、ばかばかしいと呟いた。
 それが正しい判断だと思う。笹倉くんたちは、慎吾の存在に慣れすぎているのだと思う。そっちの方が早い、というのは同意するけど。
「よっし」
 ぱたん、と資料を閉じる。
「何度もこんな風に警察資料だけを見て安楽椅子探偵を気取るのもどうかと思うんだけど、あんまり時間がないからね。さくっと行くよ」
 そして疑いを顔から隠そうともしない刑事さん相手に、
「解決編を始めよう」
 謎解きを始めた。


第四章 弁護士の場合