それからしばらく、あの人達には会わなかった。
 私は毎日のように図書館に行っていたけれども、あの人達は来なかった。
 もともと、居たり居なかったり、色々だったけれども。
 続けて来る日もあれば、ぱったりこない時もあった。
 それでも一つだけ言えるのは、図書館の貸出期間は二週間。それが過ぎる前には来るだろう、ということだ。
 案の定、二週間後にはあの人達に会った。もっともそれは、図書館がお休みの月曜日だったけれども。
 図書館は毎週月曜日が休みだ。
 そういうときは、仕方がないので図書館の近くの神社か、河原で本を読みながら時間をつぶすことにしている。
 その日、私が選んだのは河原の方だった。
 小学生達がサッカーをしているのを見ながら、土手の芝生に腰をおろす。
 そうして、借りてきた小説を読んでいた。
 絵本を読むのは図書館だけ。そう、決めていたから。
 以前、小学生のころ、絵本を読んでいるのが見つかって男子に盛大にからかわれた。「柴山は赤ちゃんなんだー!」なんて、そんな風にからかわれた。
 あれ以来、外で絵本を読む勇気はない。
 そうしていると、
「あれー、この前のー!」
 背中に声をかけられた。
 振り返ると、図書館の彼女が笑っていた。
「あ、やっぱりー! この前はありがとうございます!」
 楽しそうに笑うと、彼女はそのまま、私の隣に腰をおろす。
 流れるように、なんのためらいもなく。
「……おい、真緒」
 スーパーの袋を片手に持った彼が、不愉快そうに名前を呼ぶ。面倒だな、とでも言いたげな声色。
「ちょっとだけー」
 彼女がそう返事をすると、彼は嫌そうな顔をしたまま、それでもそれ以上は何も言わず、少し離れたところに腰をおろした。
 彼女は私に向き直ると、
「あたし、真緒! あなたは?」
 弾んだ声で尋ねてくる。
「あ、えっと、柴山佐緒里、です」
「佐緒里さん! よろしくね!」
 そうして、楽しい絵本を読んでいるかのような笑顔で、真緒さんが笑った。
「あっちはねー、隆二!」
 男性の方を指差しながら言う。
 隆二さんは、つまらなさそうに、離れたところで横になっている。
 それでもたまに、ちらりと、こちらに視線を向けていた。そして、すごく優しそうな顔もしていた。
 それに、どきり、とする。
「……兄妹、ですか?」
 かねてからの疑問を、そっと口にしてみると、
「ううん」
 勢いよく、首を横に振って否定された。
「んー、なんていうか、同居人?」
「……同居人」
 同居人って、どういうことなんだろうか。一緒に住んでいるけれども、赤の他人、ってこと?
「家族みたいだけどー、ずっと一緒にいるけどー、家族じゃないのー。まあうん、隆二なの!」
 そんなわけのわからないことを言われる。それから一度、ちらりと隆二さんの方を見た。つられて一緒にそちらを見ると、つまらなさそうに瞳を閉じていた。
「あのね」
 それでよかったのか、真緒さんは声をひそめると、私の耳元でそっと話はじめた。内緒話みたいに。
「色々あったところを、隆二に助けてもらったの」
「……助けて?」
 それは一体、どういうことなのか。
「シンデレラが魔法をかけてもらって、舞踏会に行くみたいに」
 近づけていた顔を離すと、彼女は小さな声で、微笑みながら、続けた。
「あたしの、魔法使いなの」
 同居人で、助けてくれて、魔法使い?
 頭を悩ませている間にも、彼女は話を続けていく。声はすっかり、元のトーンに戻っていた。
「今日は図書館がおやすみだからねー、返却ボックスに本返してー、お買い物行ってー、帰るところなの」
「ああ、はい、なるほど」
 ぐいぐいと話かけてくる彼女の勢いに圧倒される。
「佐緒里さんはー? 図書館おやすみだから、ここで本読んでるのー?」
「ええ、まあ」
「佐緒里さん、いつもいるもんね!」
 屈託なく笑う。
 真緒さんの勢いに圧倒されてはいたが、別段そこまで不愉快には思わなかった。
 彼女はこちらの反応を、よくも悪くも、そこまで気にしていない。それが、わかったから。
 クラスの子たちが、ぐいぐいくるのとはまた、少し違う。反応を間違えたからって、白い目で見られることはない。
「本好きなのー?」
「ええ、まあ」
「あたしもー! まあ、あんまり字いっぱい書いてあるのは嫌だけどね」
「……いつも、絵本、読んでますもんね」
「うん、たのしーもの! この前はね、あれ読んだんだ!」
 言って立ち上がり、河に向かって呼びかける。
「ほうーほう ほ・ほ・ほ ほーう」
 その独特の言い方は、知っている。
「『月夜のみみずく』?」
 答えを提示すると、
「正解!」
 楽しそうに笑った。
「あたしもみみずく見てみたいんだよねー、会えるかな?」
「……ここでは、無理じゃないかと」
「だよねー、河で見つかるのは、河童ぐらいだよねー」
 ……河童の方が、見つからないような気もするけれども。
 でも改めて思う。本当にこの人は、真剣に絵本を向き合っている。
「絵本、好きなんですか?」
 今更過ぎる質問をしてみると、
「好き! 大好き」
 にぱっと笑って頷かれた。
 それから、ちょっとだけ唇を尖らせて、
「隆二はね、子どもっぽいってバカにしてきたりするけど」
 そんなことを言う。
 それにちくっと胸が痛んだ。
 ああ、やっぱり子どもっぽい趣味なのだろうか。
 だけれども、彼女はそのまま一転、明るい声で続けた。
「だけど、絵本は大人が書いているじゃない? 絵本も、あとアニメもあたし大好きだけど、そういうのって大人が頭を使って、精一杯に子どもを楽しませようとしているものじゃない? それってもう絶対楽しいし、そういう姿勢って」
 そこでぱっと、花開くように両手を上にあげる。万歳のポーズ。
「ちょー、ハッピーだよね!」
 えへ、っと笑う。
 その顔と言葉に、すっと胸の痛みが消えていった。
 ああ、そういう風に彼女は考えているのか。大人が生み出した、子どものための最高の娯楽。
 彼女なら、ばかにしたり、しないだろう。ふっとそう思った。
 私が、絵本が好きなことも、絵本作家になりたいことも、言ってもばかにしたりないだろう。
「……私」
「うん?」
 誰にも言ってなかったこと。
 それを言うつもりになったのは、多分、真緒さんの、この底抜けの明るさに後押しされたのだと思う。
 それに、彼女が誰かのことをバカにすることが想像できなかったから。
「絵本、書きたいんです。絵本作家になりたい」
 ぽつんっと、水に石を落とすように言葉を紡ぐと、
「え、え」
 真緒さんはアーモンド型の瞳をまんまるにして、私の顔をじっと見つめる。
 それが照れくさくて、恥ずかしくて、もしかして間違えただろうか、なんて思っていると、
「すっごーい!!」
 手を握られた。
 きらきらした瞳が、私を正面からじっと見つめる。
「え、本当に? 作家さんになるの? すごーい!! かっこいいー!」
「え、あの、なりたいっていうだけで、なれるかどうか……」
 そんな風に言われたら、もう絵本作家みたいじゃないか。
 真緒さんの勢いに驚いたのか、きょとんっとした顔で隆二さんがこちらを見ているのがわかり、なお恥ずかしくなる。
 そんな私に気づいたのか、
「真緒」
 隆二さんが一言、たしなめるように名前を呼んだ。
 それで伝わったのか、真緒さんのテンションが少し落ち着く。
 困っているだろ、少し落ち着け、っていうことだったんだろうか。一言でそこまで伝えてしまうのか。
 それでも、真緒さんのきらきらした瞳は止まらない。
「え、じゃあ、絵、描けるの!?」
「え、ええ、まあ……」
 それなりに練習しているし、東京の学校では美術部にはいっていたけれども。
「すっごーい! じゃあさ、じゃあさっ! えっと」
 言いながら彼女は、リュックをおろし、中からノートを取り出す。この前私が持ち帰ってしまった、あのノート。
「これっ! これに絵、描いてもらってもいい? 猫の絵!」
 左手で差し出されたノートを受け取る。絵を描いて、って。
 渡されたそれを見て、どうしようかなっと思っていると、
「嫌なら断っていいから」
 向こうから、隆二さんの声がとんできた。
 寝転んだままだったけれども、こちらを見て、一瞬すまなさそうに顔を歪める。
「真緒も。無理言うな」
「……無理?」
 真緒さんが首を傾げてこちらを見てくる。眉根を寄せて。
「……無理ならいいの、ごめんなさい」
 しゅんっと肩を落として、ノートを取り戻そうとする彼女を見ていたら、無理とか嫌とか言えなかった。
 叱られた猫みたい。尻尾と耳があるならしゅんっと下に落ちていることだろう。
「いいですよ」
「え?」
「私でいいなら」
 言って笑う。
 それに、決して無理だったり嫌だったりするわけがないのだ。
 誰かに絵を描いてなんて言われること、今までなかった。
 すっごく嬉しい。
「え、本当? 本当にいいの!?」
 しゅんとしていたのが一転、声が高くなる。尻尾はぴんっと立っている。
「はい。お気に召すか、わかりませんが」
「やった、ありがとう!」
 手を叩く真緒さんの向こうで、
「……すまない」
 上体を起こした隆二さんに頭をさげられた。軽く首を横に振る。
 それに、これは少しの罪滅ぼしの意味もある。このノート、前に見てしまったし。
 鞄からペンケースをだそうとすると、
「はい!」
 それよりも先に、真緒さんがペンケースを渡してくれた。ありがたく、それを借りることにする。
 もこもこした、ぬいぐるみっぽい猫の型のペンケースだった。
 私の手元を覗き込もうとする真緒さんの胸元でネックレスが揺れた。それも猫、だ。
「……猫、好きなんですか?」
「うん、大好き」
 大きく真緒さんは頷いた。
「マオって中国語で猫なの」
「ああ、なるほど」
 名前繋がりで好きになったのか。
 表紙を眺める。
 大きく書かれた名前と、シール。その隙間に猫を描く。
 ペンケースの中に入っていたボールペンで、おすまししている黒猫を描いていく。
 ちょっと悩んでから、緑のサインペンを借りると、瞳と首輪を描き込んだ。
「……うん」
 なかなかにうまく描けたんじゃないだろうか。
 頭が大きい、仔猫風。イメージは、『こねこのぴっち』。
「わー」
 隣でじっと、息を殺してみていたマオさんが、ゆっくりと息を吐いた。
「すごーい、かわいいー!」
 そっと愛でるように表紙を撫でて、うっとりとした顔をする。
 それから私を見ると、
「上手ね! ありがとう!」
 満面の笑顔で言った。
「いえ」
 あまりに全力なお礼の言葉に、逆にこちらがたじろいでしまう。
「……気に入ってもらえたなら、よかったです」
 小声で付け足す。
「うん! すっごく、うれしい!」
 えへへ、と何度も表紙の猫を撫でる真緒さんを見ていたら、ああ、描いてよかったな、と思った。
 こんな風に誰かに喜んでもらえるなんて、すっごく嬉しいな。
 やっぱり、こうやって自分の絵で誰かを元気にしたい。そういう仕事に就きたい。絵本が描きたい。
「よかったな」
 いつの間にか立ち上がっていた隆二さんが、ぽんぽんっと軽く、真緒さんの頭を後ろから撫でた。
「ありがとう」
 それから私を見て、小さく笑う。
「あ、いえ」
 大人の男の人からの、素直なお礼の言葉になんてなれていなくって、やっぱりとまどってしまう。
 そんな私を見て、隆二さんはまた小さく笑った。
 それから、
「真緒、そろそろ帰るぞ」
「えー」
「食料品が腐る」
「うー」
 不満そうな顔をしていた真緒さんだったが、隆二さんの言葉に、しぶしぶノートをリュックにしまいはじめた。
「ごめんね、佐緒里さん、帰るねー」
 軽く唇を尖らせて、彼女は言う。
「あ、いえ、お気をつけて?」
「うん、佐緒里さんも。ノート、ありがとね! 本当嬉しい!」
 言いながらまたテンションがあがったのか、声が大きくなる。
「邪魔して悪かった。付き合ってくれて、ありがとう」
 真緒さんの横で、隆二さんが言う。
 ふるふると首を横に振るのが私の精一杯だった。
 邪魔だなんて、思っていない。楽しかったです。
 絵、褒めてくれてありがとう。
 言いたいことは沢山あったけれども、どれも言葉になりそうもなかったから。だから、ただ首を横にふった。
 そんな私を見てどう思ったのか、隆二さんはふっと息が抜けるように笑った。
 何も言えていないのに、全てが伝わったかのような笑い方だった。
 なんだか、どきどきする。大人の男の人の、そんな顔、はじめてみた。
「じゃあねー、ありがとう!」
 ぶんぶんと手を振ると、いつものように二人は帰って行った。
 その後ろ姿を見送る。
 楽しそうになにか真緒さんが言って、それを適当に隆二さんが聞き流している。そんな風に見える後ろ姿を見送る。
 後ろ姿が見えなくなると、大きく息を吐いた。
 ああ、なんだかすごく緊張した。
 考えてみたら、クラスメイトや叔母さん以外と話をするのなんて久しぶりじゃないだろうか。それも、ルーティンな用件だけの会話じゃなくって、本当の意味でのおしゃべりをするなんて。
 しかもあんな、大人のひとと。
 ありがとう、と笑った真緒さんの顔を思い出す。
 どきっと心臓が跳ねた。
 ああ、夢が叶うかもしれない。叶えてもいいのかもしれない。目指してもいいのかもしれない。
 あの笑顔を思い出すと、そんな風に思えた。
 本を閉じると立ち上がる。
 私も帰ろう。
 帰ってちょっと、絵本を書いてみよう。今日ならなにか、いいものがかける。そんな気がした。