どれぐらいそうしていただろうか。
「……佐緒里さん?」
 遠くから名前を呼ばれて、のろのろと顔をあげた。
「……真緒さん」
 一つの傘に二人で入りながら、歩いて来たのは真緒さん達だった。
「どーしたの!」
 真緒さんは私の格好に気づくと、隆二さんがさしている傘からするりと抜けて、こちらに駆けてくる。
「真緒」
 たしなめるように名前を呼んで、隆二さんもこちらにくる。
「どうしたの?」
 地面にしゃがみこむと、私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
 その心配そうな顔を見たら、また涙がでてきた。
「ひっく」
 堪え切れなくてしゃくりあげてしまう。
 真緒さんが困ったような顔をしながら、それでもリュックからハンカチをだして渡してくれた。
 それを受け取って、両手で握って、顔に押し付ける。
「……こりゃまた、派手にやられたな」
 隆二さんの声も降ってくる。
 傘を差し出されて、雨が遮られる。
 私と真緒さんにかかるようにしているから、隆二さんは少し濡れている。何の躊躇いもなく、傘をそうやってさしてくれる。
 その優しさが痛くて、嬉しいから痛くて、また涙がでてくる。
 ぽんぽんっと、躊躇いがちに頭を撫でられた。
「どーしたの?」
 そっと尋ねられた言葉。
「クラスのっ、子にっ」
 誰にも言えなかった。
 それをしゃくりあげながら、たどたどしく、説明する。
 この町に来た理由、澪のこと、図書館が好きなこと、嫌がらせ。
 全部、全部。
 本当はずっと、ずっと、誰かに言いたかった。

 要領を得ない私の話を、真緒さん達は黙って聞いてくれていた。
 私が話終わると、真緒さんが言葉を選ぶように躊躇いながら、話出す。
「……あたし、バカだから、こういうときなんて言ったらいいか、わかんないけど」
 真緒さんは、真緒さんの方がなんだか泣きそうな顔をしながら、
「がんばったね」
 手を伸ばし、私の頭を撫でてくれた。
 それにまた、じわりと涙が湧きでてきた。
「佐緒里さん、お家までおくろうか?」
 そっと言われた言葉に、慌てて首を横に振った。
「このままじゃ……、帰れない」
 小さく呟く。
 こんな格好のまま帰ったら、叔母さんにもバレてしまう。
「心配させちゃう……」
「……心配させてやれよ、って俺は思うけどねぇ」
 隆二さんが呟く。揶揄するように。
「このままじゃ駄目なこと、わかってんだろう? 本当は」
「……それは、そうですけど」
 このまま逃げ回っていてもなにもかわらないことぐらい、ちゃんとわかっている。
 だからって、言えるわけがない。言えない。
 だって、一体、なんて言えばいいの。
「何も言わなくても、その格好で帰ったら、よっぽどのばか以外、大体は察してくれるだろ」
「……できない」
 そんなことできない。
 この格好のまま帰れば、叔母さんはきっと全部わかってくれる。どうにかしてくれる。
 だけれども、それは叔母さんの手を煩わせることになる。
 お母さんにだってバレる。
 そんなわけにはいかない。
 私はこの土地で、元気でやっていることになってなくちゃいけない。
「もー、隆二はデリカシーがないんだから、黙ってて」
 真緒さんが振り返って、背後の隆二さんを睨む。
「大人としての意見の提示」
「大人は理屈ばっかりでものを言うから、嫌い」
「大人にだって感情はあるし、子どもだって理屈がないわけじゃないだろう」
「そういうところが大人はだめだって言っているの!」
「……ああもうじゃあ、勝手にしろよ、知るかよ」
 最終的に、隆二さんは面倒くさそうに呟いた。大人のくせに、投げやりな子どもみたいな言い方。
 真緒さんが私の方に向き直る。色々な色で汚れた私を眺めてから、
「じゃあさ、うちにおいでよ」
 微笑みながらそう言った。
「それでさ、綺麗にしてから帰ればいいんだよ!」
 名案! とでも言いたげなテンションの高い声。
 私は、といえば、突然の申し出に驚いて、ぽかんっと間抜けな顔を晒していた。
「……真緒」
 隆二さんが苦々しい顔でそう言う。
 それはたしなめるというよりも、諦めに近い呼び方だった。
「いいじゃん。放っておけないじゃん」
「……お前はもうちょっと、考えてから発言しろよな色々」
 溜息をつきながらも、隆二さんは私の自転車に近寄る。
「パンク?」
「……はい」
「仕方ないな」
 傘を真緒さんに手渡すと、フレームに手をかけて軽く持ち上げた。
「え、あの」
 思いがけないことに、慌てて立ち上がる。じくり、と膝が痛んだ。
「パンクした自転車ひきずっていくよりは、マシだろ」
「そうじゃなくって」
 じゃあなに? とでも言いたげな顔で見られる。
「え、だって、伺ったりして、お邪魔じゃ……、ないですか?」
 正直、申し出はありがたかった。嬉しかった。
 だけれども、隆二さんは乗り気じゃないみたいだし、そんな図々しいこと。
「言い出したらきかないから、そいつ」
 顎で真緒さんをさす。
「真緒、貸し一な」
「はーい。ありがと」
 真緒さんが嬉しそうに頷く。
「そういうことだから」
 そうして隆二さんはすたすた歩いて行ってしまう。
「大丈夫、行こ」
 左手に傘を持った真緒さんが、私を見て笑った。
「……はい」
 その傘の中に導かれるようにして、歩き出した。

 図書館から、叔母さんの家とは反対方向に十分ちょっと歩いた場所。
 そこに真緒さんたちの家はあった。
 学校や叔母さんの家の辺りは、多少栄えているけれども、ここは本当に、民家すら少ない。
 空き地に囲まれてぽつんと立つ、平屋の民家。その前で、先を歩く隆二さんが足をとめた。
「……ここが?」
「うん」
 真緒さんが頷く。
 古い建物で、ザおばあちゃんの家、と言った感じ。
 随分とおもむきがあって、広そうだし、立派そうに見える。
 ここに二人で住んでいるのだろうか。
 ぎぃぃっと音を立てる門をあけて、隆二さんが中に入っていく。
 隆二さんは自転車を壁に立てかけるようにして置くと、鍵をだして、玄関の引き戸を開けた。
「どうぞ!」
 真緒さんに促されて中に入る。
「……おじゃま、します」
 玄関は広い。
 真緒さんが私の横を抜けて、慣れた調子で奥に進む。そのまま、ひょいひょいっと靴を脱いで、部屋の中にあがった。
「……だから、靴揃えろって言ってんだろうが」
 後ろからきた隆二さんが、ぶつぶつ言いながら、真緒さんが脱いだ靴を揃えた。
「あがれば?」
「あ、はい」
 靴を揃えて脱ぐと、
「おじゃまします」
 もう一度呟いてあがる。
「とりあえず、風呂だな」
 隆二さんは私の格好を見て呟く。
「真緒」
「うん」
 真緒さんは呼ばれて頷くと、
「案内してあげる、行こ」
 私の手を掴んで笑った。
「おまえの服、貸してやれ」
「はーい」
 手を繋いだまま、お風呂場に案内される。
 お風呂は普通のお風呂だった。
 洗面所と洗濯機も一緒に並んでいる。
「最近ね、リフォームしたの」
 私の心を読んだかのように、真緒さんが笑いながら言う。
「ちょっと前までね、五右衛門風呂っていうの? 薪で湧かして、板をしずめて入るお風呂だったんだけど、隆二がめんどうだし、危ないから、もういやだって言ってこうなったの」
 棚からバスタオルを出しながら、真緒さんが笑う。
「そう、なんですか」
「そー」
 大きく頷いてから、ちょっと待っててね、とぱたぱたとどこかに走って行く。
 私はなんとなく、辺りを見回した。
 なんだろう、この変な感じ。私はここで、何をしているんだろう。
 洗面台の上に、二つだけ並んだ歯ブラシに、なんだかドキドキする。
「お待たせー」
 ぱたぱたと真緒さんが戻って来た。
 手には黒っぽい洋服を持っていた。
「これに着替えてー、とりあえず」
「あ、ありがとうございます」
 受け取る。
 タオル地の、猫耳フードがついたルームウェアだった。
「これね、あたしの一番のお気に入りなの! きっと似合うよ!」
 私が服を確認したのを見て、屈託なく真緒さんは笑う。
 そんな、一番のお気に入りを躊躇いもなく貸してくれるなんて。
 私だったら、一番のお気に入りは貸してあげられないのに。汚されたりしたら、嫌だから。
「……ありがとうございます」
 頭をさげると、ううんーっと真緒さんはまた笑った。
「制服は脱いだらそこに置いといていいよー、とりあえず」
「あ、はい」
「この家のどっかにいるから、出たら探してー」
 じゃああとでね、と脱衣所のドアをしめると、真緒さんの足音が、またぱたぱたと遠ざかって行った。
 溜息をつく。
 髪の毛に触れると、絵の具が溶けきってなかったのか、塊が髪の毛についてごわついていた。
 とりあえず、お風呂をいただこう。