シャワーを浴びて、人心地つくと、真緒さんを探すため、家の中を探索することになった。
「へー、自転車のタイヤって、そうなってるんだー」
 真緒さんの声がする。
 そちらの方に向かって歩いて行く。
 縁側にしゃがみ込んだ真緒さんが、庭で何か作業をしている隆二さんの手元を、楽しそうにのぞきこんでいた。
「……あの」
 恐る恐る声をかけると、
「あ、お風呂、大丈夫だったー?」
 振り返って真緒さんが笑う。
「あ、はい。ありがとうございます」
「うん」
 近づいてみると、隆二さんは私の自転車をいじっているところだった。パンクを修理してくれている。
「あ、すみません」
「いや」
 隆二さんが顔をあげる。
「パンク修理とか、前に一回やったことあるだけだから、とりあえず応急処置。今日帰れるぐらいにはしとくから、はやいうちに自転車屋持って行きな」
「ありがとうございます」
「ん」
 隆二さんは軽く頷くと、また自転車にむきなおった。
「真緒」
「うん」
 一言名前を呼んだら通じたらしい。真緒さんが立ち上がる。
「佐緒里さん、コーヒー飲める?」
「……あんまり得意じゃないです」
 苦いから。
「じゃあ、あたしと一緒でカフェオレね!」
 真緒さんが笑うと、行こうっとまた私の手をとった。
「隆二は?」
「終わったら、自分でいれるからいい」
「はーい」
 それだけいうと、私の手をひいて、また家の中を進んで行く。
 しかし、本当、二人で住むには、かなり広い家だ。
 ダイニングに案内される。
「座ってて」
 言われて大人しく、ダイニングテーブルに腰を下ろした。
 真緒さんが食器棚から、猫の描かれた透明のグラスを二個だしてくる。
 棚から瓶をとりだすと、中に入っていたものをグラスにスプーン二杯いれた。インスタントコーヒーみたいだ。
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、グラスにそそぐ。
 コーヒーを溶かすと、テーブルの真ん中に籠にいれておいてあったガムシロップを、一個ずつ、グラスの中にいれた。
 からからとまた、かき混ぜる。
 一つを味見して、満足したのか、
「はい」
 私の前に一つ、おいた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 うけとる。
 期待をこめた目で見られるから、そっと一口飲んだ。コーヒーは苦手なんだけれども。
「あ、これなら飲める」
 一口飲んだそれは、牛乳とガムシロップでだいぶ飲みやすくなっていた。
「よかった」
 私の正面に座りながら、真緒さんが笑う。
「あたしもあんまり好きじゃなくって。苦いから。だけど隆二がいつも飲むから、あたしも一緒に飲みたくって、色々研究したのー、これでも」
 えへへっと笑う。
「おいしいです、ありがとうございます」
「よかった。あ、そうだ。貰い物だけどね、クッキーがあるんだった」
 立ち上がった真緒さんが、棚の上の方からひらべったい缶をとる。
「よかったらどうぞー」
 贈答用のクッキーのようだった。
「もらったんだけどね、隆二こういう甘いもの、あんまり食べないからさ。あたししか食べなくて、あんまり減らないのー。だから、好きなだけ食べていいよー。むしろ、食べて食べて!」
「ありがとうございます」
 お言葉に甘えて、アーモンドがのったクッキーを手にとる。
 美味しい。
 思わず顔が小さく、笑みを描く。
 真緒さんがそんな私を見て、ふふっとまた笑った。
 なんだか恥ずかしくなって顔をそらす。
 と、部屋の中に電子音が響いた。
「わっ」
 真緒さんが慌てて、上着のポケットから取り出した携帯電話。コミカルなメロディーを奏でている。
「ちょっとごめんね」
 真緒さんはそう言うと、ケータイを耳に当てて、立ち上がった。
「もしもしー」
 電話だったみたい。
 話しながら、ちょっと離れたところに移動する。
「あ、お手紙届いたー? よかったー。うん、そー、元気だよー。沙耶は? ほんとー、よかったー。美実ちゃんも元気ー? あ、クッキーありがとねー」
 そんな声が聞こえてくる。
 真緒さんがケータイ持っているのって、なんだか少し意外だな。こういう家に、ケータイが不釣り合いなのかもしれない。
 そんなことを思いながら、小さくあくびをする。
 人心地ついて、安心したら眠くなってきてしまった。
 慌ててコーヒーをまた一口、飲んだ。

 のに、やっぱりあっさり眠ってしまったようだ。
 気づいたらテーブルに突っ伏して眠っていた。
 肩に薄手の毛布がかけられている。
「あ、起きたー?」
 真緒さんが私に気づくとそう言った。
 ダイニングテーブルの向かい側で、その隣に座る隆二さんと、話をしていたみたいだった。
「……あれ、すみません」
 目を擦りながら顔をあげる。
 恥ずかしい。
「ううん」
 真緒さんは軽く首を横に振った。
「だいじょーぶ?」
 ふわっとした問いに、小さく頷く。
「ん、ならよかった」
 真緒さんがくしゃっと笑った。
「そろそろ起こした方がいいかなって、話してたところなの。今ねー、五時をちょっと過ぎたとこだよ」
「あ、はい」
 じゃあ、そろそろ、帰らなくちゃいけないのか。
 考えて憂鬱になる。
 普通の笑顔を作れるだろう。叔母さんの前で。
「制服はねー、お風呂場のとこに干してあるよ」
 干して?
「あー、悪い。勝手に洗った」
 隆二さんが苦虫をかみつぶしたような顔で言った。
「一応、目立った汚れをとったぐらいだから、もう乾いているとは思うんだが。……全部終わってから思った。男に洗濯されるのって、嫌だったよな、悪い」
 本当に、申し訳なさそうな声で言われるから、恐縮してしまう。
「え、いえ、そんな」
 確かに、よく知らない人に自分の衣服を扱われるのって嫌だけれども、そんなこと言える立場じゃないのは十分よくわかっているし、それに、
「そんな、嫌じゃないです」
 この人になら、まあいいかな、と思ったのだ。
 完全なる善意でしてくれたことだと思うし、別に変な下心がなかったこともわかっているから。
 なんとなく、隆二さんならいいかな、と思った。
「……ならいいんだが」
「あの、ありがとうございます。すみません、なにからなにまで……」
 というか、
「なんでもできるんですね」
 パンク直して、洗濯までして。
「こいつがなんにもできないから仕方ない」
 隆二さんは、皮肉っぽく笑いながら隣の真緒さんを指差した。
「むー、テレビの録画できないくせに」
「見ないから構わない」
「またそういうこという! この機械音痴が!」
 むすっと真緒さんが膨れる。
 楽しそうで、羨ましい。
「っと、着替えてくる?」
 ひとしきり隆二さんを睨んだあと、真緒さんが私の方を向いて言った。
「あ、はい」
 頷く。立ち上がったところで、
「あ、あの、この服は、今度、洗濯してお返ししますね」
 今着ているルームウェアを指差す。
「良いよー別に、洗濯機の上にでも置いといてくれればー」
「だけど」
 悪いじゃないか、それじゃあ。
「持って帰ったところで、洗うの大変だろ。叔母さんにばれないように」
 隆二さんが言った言葉に、すっと冷静になる。
 そうだ、叔母さんにバレないように洗うなんて。
 澪とか目敏いし、新しい服持っていたら問いつめられるかもしれない。
「ホント、置いといていいよー。どうせ洗うのは洗濯機だし」
「……まあ、確かに洗うのは、俺じゃなくてましてや真緒でもなくって、洗濯機様様だなー」
 のんびりとそんなことを言う二人を交互に見比べて、
「……えっと、じゃあ、すみません。お願いします」
 お言葉に甘えることにした。
「うん、気にしなくていいよー」
「お願いします」
 今度、お菓子かなんか買って来よう、また改めてお礼に来よう。そう決めた。
 お風呂場に行くと、制服がハンガーにかかっていた。
 言われたとおり、目立ったシミがとれて、綺麗になっている。
 制服に袖を通す。
 まだ少し湿っているけれども、あのままよりはよっぽどマシだ。本当に、とってもありがたい。
「本当にありがとうございました」
 パンクの直った自転車。
 綺麗な制服。
 あたたかいお風呂。
 何から何まで、甘えてしまった。
「ううんー、気にしないでー」
「真緒に貸し三だから」
「あれっ、増えてない!?」
 真緒さんが驚いたように隆二さんを見て、隆二さんが楽しそうに笑った。
 本当にこの人達は、とっても楽しそうに笑う。
 なんの憂いもないかのように、屈託なく、子どものように。
 それが眩しくて、羨ましい。
「送らなくて平気? 道、わかる?」
「大丈夫です」
 まっすぐ行って、交差点を右、で図書館ですよね? と確認すると、真緒さんが大きく頷いた。
「図書館までわかれば平気です」
「うん、よかった。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございます」
「また、図書館でねー」
 ひらひらと手をふられる。
 それに手をふりかえすと、自転車に跨がり、勢いよく踏みこんだ。
 パンクが直った自転車は、すぃっと軽く進む。
 どこまでも、軽く。私を連れて行ってくれる。
「気をつけてねー」
 背後からかかった声に、ちょっとだけ振り返ると、小さくなった真緒さんが手をふってくれていた。
 見えないかもしれないけれども、ぺこりと頭を下げる。
 気持ちはだいぶ軽くなった。
 少なくとも今日は、叔母さんの家に帰っても乗り越えられる。
 そう、思えた。