数日後の図書館で、同じように真緒さんに話かけた。
 そして、いつもよりも早く迎えにきた隆二さん。
 そこからなんとなく、話が弾んで、隆二さんが面倒くさそうな、嫌そうな顔をするのをスルーして、コンビニでアイスを買って食べることになった。
「……すみません、ごちそうになって」
 お金なんて持っていなかったから、奢ってもらうかたちになってしまったけど。
「気にしないでー、あたしのおごりだから。隆二じゃなくて、あたしの」
 真緒さんが、ふふんっとなんだか勝ち誇ったように笑う。
「……まあ、その分は好きなように使え、って言ったのは俺だもんな」
 変なところで物わかりがいいのか、隆二さんは小声でぼやいていたものの、別段とがめようとはしなかった。
 いつかの神社の長い階段、上の方に真緒さんと並んで座る。少し下の方で、隆二さんが缶コーヒーを飲んでいた。
 真緒さんの膝の上には、数冊の絵本がのっていた。今日借りたものらしい。それにしても……、
「なんで、全部人魚姫なんですか?」
「同じ話なのに絵が違ったり言葉が少し違っただけで、全然別物みたいになるの、なんだか気になったから」
 確かにそうだ。人魚姫ともなると、いくつも色々な人が訳して、絵を描いて。なかには別物みたいになっている。
 切り絵風だったり、水彩だったり。表紙からして異なるそれを眺める。
「結末は一緒だけどねー」
 不満そうに真緒さんが唇を尖らせた。
 人魚姫は最後、泡になって消えてしまう。
 王子様を殺さないと自分が泡になって消えるとしても、愛した王子様を刺すことなんて出来ずに。
「佐緒里さんなら、どうする?」
「え?」
「佐緒里さんが人魚姫を描くなら、どうする?」
 絵本の表紙を撫でながら、何でもないことのように真緒さんが尋ねてくる。
 人魚姫を、描くなら?
「……あれ、物語の続きを勝手に考えるのって、やらない? あたし、結構やるんだけど」
 よほど不思議そうな顔をしていたのだろう、真緒さんが慌てたように言葉を重ねる。
 そんなことない、と思ったけれども、まったくないわけではなかった。最近はあまりやらないけれども、前は好きなアニメの続きが待てなくて、次の週の分を考えたりしていたっけ。それと、同じか。
「そうですねー」
 言いながら、絵本の表紙を眺める。
「真緒さんは?」
「あたしなら、そうだなー。人魚姫が喋れないことがそもそもの原因なんだから、いい魔法使いに喋れるようにしてもらうかな」
「いい魔法使いに?」
「そう。眠れる森の美女で、姫は眠るだけです、っていう魔法をかけた魔法使いみたいに」
 にっこり、と真緒さんが無邪気に微笑んだ。
 そのあと、
「で、婚約者を、この泥棒猫! って罵るの」
 なんて続けたけれども。
 いい魔法使いが簡単に出てくる。それはやっぱり、自分が魔法をかけてもらったことがあるからだろう。
 現状を打破してくれる、魔法使い。
 その場所から連れ出してくれる、魔法使い。
 連れ出して。
 ここから、連れ出して。
 私に魔法をかけてくれる魔法使いは見つからない。
 そもそも、魔法使いが見つからない。
 なら。
 階段のしたの方で、頬杖をついてぼーっと空を見ている隆二さんを見る。
 隆二さんに、なってもらえばいい。私の魔法使いに。
 もう既に、真緒さんの魔法使いになったことがあるのだ。一度なっているのだから、また、なれるよね?
 じゃあ、どうしたら私の魔法使いになってくれるのか。
 真緒さんの膝の上にある、人魚姫。
 王子様は他の女と結婚する。泡になる人魚姫。
 私の人魚姫は、こうだ。
 王子様を殺す必要はない。泡になる必要もない。
 その、女を、殺せばいいのだ。
 そうして、その地位に自分がつけばいいのだ。
 真緒さんの代わりに、私が。
 魔法をかけてもらうの。
 だって、ずるいから。
 ひとりだけ魔法をかけてもらうなんて、ずるいから。
 自分の思考回路にぞっとする。
 でも、それと同じぐらい歓喜していた。
 解決策が見えたことに。ここから抜け出す方法が、見えたことに。
 心臓が、どきどきと跳ねる。
 例えば。
 階段を見る。長い階段。
 例えば、ここから落ちたら?
 隣で楽しそうに笑う真緒さんを見る。
 そんなこと、物語の世界でもないのにしたらいけない。
 一つ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
 そんなこと。
「……そういえば、最近は学校、大丈夫?」
 ふっと、真緒さんが小声で尋ねて来たことに、落ち着いた心臓がまた跳ねた。
 曖昧に笑う。
 ああ、そうだ。
 そんなことしちゃいけないけど、だったら、じゃあ、ずっとここにいるの?
 どこにも居場所がないまま、ずっとここで生きていくの?
 そんなの、嫌だっ。
 あんなの、もう嫌だっ。
 どくんっ、と心臓が跳ねて、あとはもう、頭が真っ白になった。
 思いつくままに。逃げ出すように、動き出す。
「きゃっ、虫!」
 わざとらしい悲鳴をあげて、見えない虫を追い払うかのように右手を動かした。そのまま、その手で、真緒さんの背中を押した。突き落とした。
「ひゃっ!」
 バランスを崩した真緒さんが悲鳴をあげ、横の手すりを掴もうと手を伸ばす。
 空を切る。
 掴めない。
 手すりは、真緒さんの右側にあったから。
 右手じゃ、掴めないから。
 両手で、口元を覆う。悲鳴を押さえるかのように。
 あるいは、邪悪な笑みが見えないように。
 全てが、スローモーションのようにゆっくり見える。
 階段を転がり落ちていく真緒さん。
 少し遅れて、驚いたようにこちらを見る隆二さん。
 散らばる絵本。
 隆二さんが、立ち上がる。慌てたように。
 私達の、少し下の方に座っていた隆二さん。
 その横を、真緒さんが転がり落ちて行く。
 手を伸ばす。
 掴めない。
 隆二さんは、そのまま、地面を蹴った。
 跳躍。
 手を伸ばす。
 真緒さんのリュックを掴むと、そのまま真緒さんの頭を抱え込む。
 そうして、そのまま、二人で転がり落ちて行く。
「やっ」
 改めて、悲鳴が自分の喉からこぼれ落ちた。
 こんな展開、想像してなかった。
 幸い、それほど長い距離を落ちることはなく、少し広くなっている部分で止まった。
 倒れた二人の動きが止まる。
 動かない。
「っ、真緒さん、隆二さんっ!」
 慌てて階段を駆け下りる。今度は自分が転がり落ちそうになるのを耐えながら。
「っ」
 小さく呻いて、隆二さんが体を起こす。それから、慌てたように、
「真緒っ」
 名前を呼ぶ。鋭く。
「うー」
 返事はすぐに返ってきた。
 真緒さんもゆっくりと、体を起こす。
 ああ、ひとまず良かった。自分で落としたくせに、安心している私がいた。
「だいじょ……」
「大丈夫かっ? 怪我とかっ。頭打ってないか?」
 駆け寄った私の言葉を遮るように、隆二さんが矢継ぎ早に問いかける。ぺたぺたと真緒さんに触れて、あっちこっち確認していく。
「うー、大丈夫」
 軽く首を横に振りながら、真緒さんが答える。
「リュックあったから、頭とかは平気」
 言いながら、真緒さんが右手をあげる。
「げ、破れてるっ」
 右手の、義手の表面が、めくれていた。
「そんなのどうでもいいだろ、ばかっ。こっちに気にしろよ」
 擦り傷のできた左手を、隆二さんが痛そうな顔をしながら、そっと持ち上げる。
「これぐらい大丈夫だよー」
「だけど」
「それより、助けてくれてありがとう。隆二は大丈夫?」
 言って真緒さんが笑うと、隆二さんはなんだか困ったように一瞬顔を歪めてから、諦めたように笑い、真緒さんの頭を一度撫でた。
「あ、あのっ」
 そこでようやく、私は言葉を発することができた。
「ごめんなさいっ!」
 二人の視線がこちらを向いたのを確認すると、頭を下げる。
「私が、真緒さんの背中押したから」
「大丈夫だよー、わざとじゃないんだし」
 安心させるように真緒さんが微笑む。
 だけど、その言葉が私の心を抉る。
 わざと、だから。
 何も言えないで、代わりにもう一度ごめんなさいと頭を下げる。
「とにかく、今日は帰ろう」
 隆二さんが言って、立ち上がる。
「立てるか?」
 真緒さんの左手を掴んで、立ち上がらせようとするものの、
「いたっ」
 小さく悲鳴をあげて、真緒さんはまた座り込んだ。
「真緒さんっ」
 慌てて手を伸ばしかけた私に、
「触るな」
 冷たく、一言、隆二さんが言った。
 その言葉に、動けなくなる。縛り付けられたように。
 もしかして、ばれた?
 わざと、突き落としたこと。
 固まる私を無視して、隆二さんは真緒さんの足元にしゃがみ込んだ。
「捻ったか?」
「んー、みたい。普通にしてると平気だけど」
「しょうがないな。今日はおぶっていくから」
「あ、ありがとう」
 そのまま、おんぶするために背中を向ける隆二さんに、
「あ、待って。絵本ばらまいちゃった」
 真緒さんが慌てたようにいう。
「あ、わ、私が持ってきます」
 その言葉に、ようやく呪縛が解けた。
 その場から逃げるように階段をかけあがると、散らばった絵本をかき集める。
「はい」
 集めたそれを渡すと、
「ありがとう」
 真緒さんはまた微笑んで、受け取ってくれた。
 絵本がリュックにしまわれると、今度こそ真緒さんを背負って、隆二さんが立ち上がった。
「帰るぞ」
 言うと、なんだか早足で歩き出す。
「佐緒里さん、今日はごめんね、またね」
 真緒さんが困ったように笑いながら、そう言った。
 隆二さんは、一度もこちらをみなかった。
 その背中を黙って見送る。
 心臓が、痛いぐらいどきどきしている。だけど、すごく冷たい。
 息がしにくい。
 喉になにかが詰まったみたい。
 私は、今、何をした?
 どきどきしすぎて、頭が痛い。
 私、今、とんでもないことをした。
 座り込みたいぐらい、気分が悪い。だけど、そんなこともできず、ただ立ち尽くす。
 無事だったから、いいけれども、私、今、人を殺そうとした。
 自分を守りたいっていうだけで。
「……もうやだ」
 泣きそうになるのを堪える。今泣くのは、反則な気がしたから。
 こんな邪悪な心の持ち主を、魔法使いが助けてくれるわけない。魔法使いが助けてくれるのは、いつだって心清らかな乙女なんだから。
 邪悪な私は、ずっと、ここで生きていくんだ。