銀次は早足でアリスの部屋から離れる。
 離れて最初の角を曲がったところで立ち止まると、拳を壁に叩き付けた。何度も、何度も。
「くそっ」
 拳が痛い。
 だけれどもそんなこと、今はどうだっていい。
 俺はお嬢様が思っているような人間じゃない。
 屈託のない、年相応の笑顔でアリスが言ったことを思い出す。
 世界を守る? そんなこと、今の今まで考えたことなかった。
 今までは、仕方がないから、とメタリッカーになっていた。そうする以外術がなかったから。
 何かを守るのは、そのついでだった。仕方ないから、守っていた。
 それは自分の義務だと思っていたけれども、義務も仕方なく課されたものだと思っていた。
 そう思ったら、あれ以上彼女の前にいることが耐えられなかった。自分の小ささが見透かされる気がして。
 もう一度強く、壁を殴る。

 鈴間屋拓郎の一人娘の名前がアリスだと聞いたとき、正直そりゃあないだろう、と思っていた。名前負けしそうな名前だな、と。
 でもアリスは可愛かった。はじめてちゃんとアリスを見たとき、まあこの外見ならアリスっていう名前もありだな、と思ったものだ。
 ただ、性格はよくある、お金持ちの甘やかされた我が侭お嬢様のものだな、とも思っていた。あの日までは。
 鈴間屋にきたばかりのころ、まだ高校生をしていたころ、銀次は身の置き所にいつも悩んでいた。シュナイダーの仕事をたまに手伝ってもいたが、それは使用人ではなかった。だから、使用人として鈴間屋に居場所を見つけることも出来なかった。
 かといって、客人でもなかった。そんないい身分でもなかった。
 居候、それに近いと思っていた。
 だからいつも人がいないところを探していた。
 庭の隅で本を読むのは、人の居ないところを探しているいうちに見つけた、銀次のお気に入りの場所だった。
 あの日、そこに突然アリスが現れた。
 ちっとも話したことがない鈴間屋のお嬢様の出現に慌てる銀次に、アリスは、
「私、お兄ちゃんが欲しかったから、私のこと妹って思ったっていいんだからね!」
 何故か高飛車に告げてきた。
 高飛車な言い方だったし、意味がわからなかったけれども、あの言葉は凄く嬉しかった。居場所のない銀次に、居場所を与えてくれるような言葉だった。
 ああ、彼女のことを妹と思って過ごして、兄として過ごしてもいいのか。
 そう思ったらふっと気が楽になったのだ。そのことを強く覚えている。
 あの後、なにを考えていたのか。実際にアリスは妹のようにつきまとってきていた。あまりに近過ぎて鬱陶しいと思ったこともあったが、今から思うとあれは貴重な時間だった。鈴間屋アリスに、鈴間屋の使用人としてではなく兄として接することが出来た、貴重な時間だった。楽しかった。
 大事なお嬢様で、可愛い妹だと思っていた。
 それは高校を卒業して、アリス付きの運転手になって、アリスとの接し方を明確に使用人としてそれに変えてからも変わらなかった。
 いや、少しだけ変わっていた。
 いつの間にか好きになっていた。
 少女だった彼女が、少しずつ大人になっていくのを目の当たりにして、彼女のなかなか表に現れない優しさに触れて、気づいたら好きになっていた。
 そんな彼女の期待しているような人間では、自分はなかった。そのことに絶望する、がっかりする、自分自身に。
 世界を守る? そんなこと、今の今まで考えたことなかった。
 今までは、仕方がないから、とメタリッカーになっていた。そうする以外術がなかったから。
 何かを守るのは、そのついでだった。
 今だって、世界を守ろうだなんてそんなたいそうなことを思えない。メタリッカーが嫌いなことには変わりがない。アリスの期待には添えそうもない。
 だけど。
「優里さん」
 背後に感じる気配に、振り返らずに声をかける。拳を壁にあてたまま。
「なんでしょう?」
 少し後ろから返事がかえってくる。
「俺、これからは、ちゃんと戦います。お嬢様を守るために」
 世界を守ることはできない。
 だけれどももう、無目的でもいられない。
 アリスを守るために、大切な彼女を守るために、そのために戦う。彼女に危害が及ばないように気をつける。それは結果として世界を救うことになるのかもしれないが、自分が守るのはアリスだ。
 アリスのために、戦う。
「そうね。最初からそうしてればよかったのよ。銀次さんはどんなに難しいこと考えたってだめなんだから」
 優里の声はなんだか楽しそうだった。
 振り返ると、小さく笑っている。
「全部、優里の言ったとおりでしょう?」
 そうして小首を傾げる。
 まったくもって、なんのことだかわからない。
 優里はそんな銀次に構うことなく、
「心の整理がついたのならば、早くお戻りになってください。アリスお嬢様が、ご心配なさっていますよ」
「あ、はい、そうします」
 何が起きたのか、と思われたことだろう。
 頷くと、足早に部屋に戻る。
 ふふふ、と優里が笑う声が背中に聞こえた。

「失礼します」
 アリスの部屋に入ると、
「白藤!」
 アリスが心配そうな顔をして出迎えてくれた。
「お嬢様、さきほどは急に中座してしまい、申し訳有りませんでした」
「そんなこといいんだけど、大丈夫?」
「はい」
 まっすぐにアリスを見つめると頷く。
 もう迷わない。
「シュナイダーさん、少し外して頂けますか?」
 控えていた執事長にそう願うと、彼は少し微笑んで部屋を出て行った。
 二人っきりの部屋。
「……いつだかと、立場が逆ですね」
 ついこの前も似たようなことがあったな、と思って小さく笑う。
「……ああ」
 アリスも苦笑いした。
「座ったら?」
 アリスがベッドの横の椅子を指差す。
 素直にそれに従って腰掛けた。
「平気?」
 もう一度問われて、頷く。
「少し迷ったりもしたのですが、平気です」
「……そう?」
「はい、お嬢様」
 笑顔をひっこめて、真剣に彼女を見つめる。
「お嬢様、一つだけお願いがあります。私が乗っ取られたらそのときは」
「そんなことない!」
 言いかけた言葉を、アリスの悲鳴が遮った。
「そんなことないありえないさせないつ」
 怯えたように叫ぶ彼女の手を、そっと握る。
「お嬢様、万が一、です」
 これだけは絶対に彼女に言おうと決めておいたことだ。
「そんなことがあったら殺してください。貴方を傷つける前に」
 そんなこと、耐えられない。
 アリスは大きく目を見開き、銀次の顔を見つめ、やがて全てを飲み込むような沈黙のあと、
「……億が一、そんなことがあったら」
 少し泣きそうな顔をしながら、銀次に告げた。
「わたしがやるわ。貴方は私のものよ、全て」
 そうして銀次が握った手を、アリスがそっと握り返す。
 見つめ合い、どちらからともなく顔が近づいたところを、
「失礼します!」
 妙にはきはきした声がして、飛び退くように二人、距離を取り直した。
「おや、おじゃまでしたか」
 飄々と呟いたのは、有能なる執事長だった。
「……シュナイダー」
 アリスが苦々しく呟く。
「なんの用?」
「はて、なんの用でしたか。わたくしとしたことが、忘れてしまったようですね」
 微笑む。
 そんなわけあるまい。優秀な彼が用事を忘れることなんてありえない。おおかた、外で聞き耳でもたてていたのだろう。
 アリスもそれはわかったらしい。アリスの柳眉が吊り上がり、なにか怒鳴ろうと口を開きかけて、
「……ああもう、いいわっ!」
 投げやりにそういうと、怒鳴るのをやめた。
「ここで怒ってもばかばかしい! でも腹立つ! だから私はもう寝ます! 二人とも出て行って!」
 それだけ早口で言われるので、男二人部屋を後にする。
「いいとこだったのにっ」
 ドアが閉まる直前、アリスのそんな声が聞こえた。
 いやはや本当にまったく。
「銀次君」
 低い声で名前を呼ばれて、ざわっと肌が粟立った。恐怖で。
「清い交際以外認めませんよ」
 睨まれた。こえー。ことによるとXよりも怖いかもしれない。
「わかっています」
 だからしぶしぶ頷いた。
 わかっているさ、今は。