という私の内心の葛藤を知ってか知らずか、その日の八時頃に峯岸が尋ねてきた。いや、知られていては、困るのだけれども。
「どうしたの?」
「ボタン、つけて……」
 か細い声で峯岸が差し出したのは、ワンピースだった。ボタンがとれたらしい。
「つけてってね……」
 私は、あなたのお母さんじゃないんですけど。
「針も糸もない……」
「貸してあげるから自分でやりなよ」
「……すみません、あってもできません」
 峯岸にしては珍しく、しゅんっと沈んでいる。どうやら本当に出来ないらしい。
「はぁ。……どうぞ」
 このまま家の前で押し問答するのも、かといって峯岸を追い払うことも出来ず、仕方なしに峯岸を家にあげた。
「あのね、峯岸。一応教えといてあげるけどね、大家はお母さんじゃないの」
 言いながら裁縫セットをひっぱりだし、針に糸を通す。大体、私だって縫い物なんて滅多にしない。それこそ、ボタンがとれたときぐらいだ。
「だってぇ」
 置いていたクッションを抱え込み、峯岸が唇を尖らせる。
「できないんだもん」
「できないことを威張らない。家庭科でやったでしょう?」
「授業で習ったことと、できるかどうかは別だもん。三島は今でも微分積分できるの? 古文読めるの?」
「……確かにそれは、あれだけれども」
 私が着手しはじめたからか、峯岸がいつものトーンを取り戻す。まったく、ああいえばこう言う。
 大体、数学や古典と、実技は別じゃないか。ここ数年泳いでなんかいないけれども、今だってきっと、多少は泳げる。
 多少おぼつかないながらも、ボタンを縫い付けていく。多少裏が汚くなったが、これぐらい我慢して欲しい。
「はい」
 手渡すと、峯岸は両手を叩いた。
「おー、さすが、三島!」
 まったく、調子のいい……。
「峯岸、あんなに細かい絵が描けるくせに、なんでボタンつけられないのよ」
「それとこれとは別だもん。裁縫難しいよ」
 簡単だよ、絵を描くことに比べたら。
 ずるいずるいずるい。
 またそんなことを思ってしまう。
 ボタンを付ける技術なんてなくてよかったのに。私にも何かを生み出す力が欲しかったのに。
「あ、あとね、ボタンをつけてもらいに来ただけじゃないの」
 峯岸がワンピースをぽいっと傍らにおいて、ケータイを操作しはじめた。
 こうやって無造作におくからいけないんでしょうに。ぽいっとおかれたワンピースを拾い、丁寧に畳み直した。
「あ、ありがとー」
「いいえ」
「えっと、これ。これに出ようと思うの」
 と峯岸が差し出したケータイの画面には、デザインフェスタ、の文字。
 このイベントなら知っている。
 五月と十一月、年二回、東京国際展場で開催されるアート系のイベント。絵だけではなく、雑貨もオリジナルならいいらしく、うちに納品している作家さんも何人か出展している。
「ふーん。いいんじゃない?」
 峯岸の絵を見てもらういい機会になるだろう。
 絵で食べて行きたいという峯岸は、色々とコンペなどに出しているらしいが、今ひとつ好ましい結果は出ていない。
 なにかのきっかけぐらいにはなるかもしれない。
 わざわざ私に話かけてきたということは、背中を押して欲しいのだろう。そう判断して、答えると、
「本当? よかったー! 抽選だからどうなるかわかんないんだけど、じゃあこの日空けといてね」
 なんだか、ちょっとよくわからないことを言われた。
「ちょっとまって峯岸。なんで私が予定空けとかなきゃいけないの?」
「だって美作も、三島さんにもいてもらった方がいいっていうし」
「え、なんで美作さんもでてくるの」
「だってそりゃあ……、だよね? mine meのことだもん」
「あー、そっちか」
 勝手に峯岸個人で出るものだと勘違いしていた。なるほど、mine meか。
 じゃあ、尚更、なんで私が行く必要があるのかがわからない。
 これが峯岸一人ならば、一人じゃ寂しいからとか不安だから、という理由で説明できるけれども、美作さんもいるのならば、私はいらないじゃないか。
 凡人の私なんて。
「二人の作品なんだから、二人でやればいいじゃない」
 才能ない部外者が、しゃしゃりでてどうしろというのだ。
「何言っているの、三島」
 峯岸がきっと眉を吊り上げて、こちらを睨む。その剣幕に押される。
 どうしよう、卑屈になったこと、見透かされてしまっただろうか。峯岸は、うじうじしたことが嫌いだから。
 そんな風に恐れていると、
「あたしと美作で、ちゃんとしたディスプレイができると思うの!?」
 強い口調で詰問された。
 峯岸が一緒につきつけてきたケータイの画面には、過去の出展者のブースの映像がうつっている。
 その写真では畳一畳程のスペースに、背後の壁やテーブルを使って、作品を綺麗にディスプレイされている。
 これが、峯岸と美作さんにできるか?
「思わない」
 思わずはっきりとした言葉で返してしまった。
 峯岸の家が散らかっていることは周知の事実だし、先日入った感じだと美作さんの家もアトリエ部分はけっこう散らかっているようだ。
 作品の値札のタグも適当な紙に書いてくるだけだし、袋詰めなんて一度もしたことがない。いくら納品が郵送ではなく、上から下に持ってくるだけとはいえ、酷い扱いだ。
 そんな二人に、こんなディスプレイができるわけがない。せいぜい、机の上にばあっとあるだけ並べる程度だ。
 それでも最低限の責務は果たせるだろうが、人目を引くにはほど遠い。
「でしょう!?」
 私が頷くと、峯岸が胸をはった。威張るな。
「だけど、これ、土日の二日間あるんでしょう? その間、店を休むことになっちゃうじゃない」
 Insulo de Triは不定休という形をとっているが、年末年始以外ほとんど休まない。
 二日続けて、それも土日を休みなんてこと、今までなかったし、これからだって考えられない。
「滅多に休まないんだからたまにはいいじゃん」
「そういう問題じゃないでしょう」
「お店の売り上げには及ばないけど、バイト代払うから!」
「……うん、そういう問題でもないんだけどね」
 常日頃からお金に困っている峯岸がそんなことを言い出すから、ちょっと驚いた。そこまで必死なのか。
 だけれども、やっぱり休むのは是認しかねる。ただ休むのではない。他人の作品を預かっているのに、わざわざ知り合いの作品を売るために店を休みにすることがどうかと思うのだ。
 峯岸も美作さんも、大家としてだけではなく、プライベートでも仲がいいと思っている。だからこそ、仕事の部分は切り離していきたい。
 という思いを説明して、峯岸にわかってもらう自信がない。
「駄目?」
 おずおずと首を傾げられる。
「三島ならオッケーしてくれるかなっと思って、MIMIMIって名前で申し込んじゃったし」
「何、ミミミって」
「三島、峯岸、美作の頭文字」
「……なるほど」
 この、安直大魔神め。
「なんで確認とらないで申し込んじゃうの」
 自然、詰問する口調になる。
「締め切り、今日までだったから。今日気づいて、美作と慌てて申し込んだ」
 素直に自供していく峯岸。というか、美作さんも止めてよ。
 大体、私ずっと店にいたんだから、聞きに来てくれてもよかったじゃない。
 最悪別に二人でやればいいじゃないか、という気持ちと、しかしこの二人だけにして本当にいいのか、という気持ちがある。
 後者は二つの意味で。嫉妬的なものと、絶対上手くいかないだろうから心配、という意味で。
「……考えとく。まだ先でしょう?」
「うん。それにまあ、抽選だしね」
「行かなくても怒らないでよ」
「……うん」
 拗ねたように峯岸は頷いた。
 そこは素直に頷いてよ……。
 まあ、抽選だしね。外れるかもしれないしね。そうすれば悩むこともないな、と思っていた。

「っていう風に思うっていうことはつまり、当たるのよねー」
 ブースとれた! と峯岸が浮かれた様子で店にやってきて、思わずそう呟いた。
 昔あたった懸賞も本当に欲しいものじゃなくって、とりあえずで出したものだったりしたしね。
「十一月の最初の土日だっけ?」
「そうそう!」
「……考えとく」
 もう一回そう答えると、峯岸は僅かに不満そうな顔をした。
 が、多少は大人になったのか、それ以上喚くことはなく、
「考えといてよねっ」
 ちょっと低い声で脅すようにそういうと、ぱっと身を翻し店から出て行った。
 かかかかんっと、外階段を駆け上がる音がした。

「三島さん、無理言ってごめんね」
 と美作さんが現れたのは、閉店の片付けをはじめたころだった。
 なるほど、こっちから攻めてきたか……。
 どうりで、峯岸が、あの子にしてはすんなり身をひいたわけだ。
 自身の口べたを自覚している峯岸が、説得を美作さんに丸投げしたのだとしたら、なんの不思議もない。
 そこまで考えてふっと思う。もしも峯岸が、美作さんの頼みなら、私が断らないと踏んでいたら? つまり、私の気持ちがバレていたとしたら?
 そう考えたら、さっと血の気が引いた。
 峯岸は人の恋心をそうやって悪用する子ではないとは思っているが……。
 だとしたらここは寧ろ、断固として断った方がいいんじゃないのか。だけれども、杞憂だったら?
 ぐるぐると頭の中で最適な解答を探していると、
「三島さん?」
 怪訝そうに声をかけられた。
「あ、はい」
 慌てて美作さんの顔を見る。
「ごめんね、三島さんの了承も得ないで、二人で決めちゃって」
 美作さんの端正な顔が、申し訳なさそうに歪む。
「だけど本当、峯岸さんも言ったと思うけど、俺たち二人じゃ無理なんだ」
 その言葉に思わず力強く頷く。私も、そう思う。
 そんな私をみて、美作さんは苦笑した。
「この前、三島さんが、峯岸さんの絵を台紙にして袋に入れてみればいい、って言ったじゃん?」
 その提案は受け入れられ、先日から試験的にストラップは絵を台紙にして袋にいれて販売している。
 峯岸の絵が目立つようになって、少しだけど売り上げが伸びた、気がする。
「あれ、素直に驚いたんだ。俺にはそんな発想ないから。多分、峯岸さんにも。俺は、作り出すだけしかできないから」
 だけ? それが出来れば十分じゃないか。羨んでいるのは、私なのに。
「すごいなと思ったんだ。三島さんの発想。俺はまあ、それなりにフリマとか出てるけど、峯岸さんはそんな経験ないし。……接客向いてないし」
「……まあ、カフェのバイト、よくできているよなーと思いますけど」
 あんな終始むすっとしているのに本当に働けているのだろうか、と最初のころ、疑問に思っていた。気になってこっそり覗きにいったら、やっぱりむすっとしたまま接客していて、よくこの子を雇続けているよな、チェーン店ってこんなものなのかな、と思ったものだ。
 見に行ったことがバレたあと、こっぴどく怒られたし。
 美作さんは苦笑いなしながら続ける。
「販売に関しては、三島さんがプロフェッショナルで、俺たちはそれに従うのが一番いいな、と思ったんだ。他力本願って言われてしまえばそれまでだけど」
 美作さんがちらりと、視線を商品が陳列された棚に移す。
「値札とかさ、説明のポップとかさ、三島さん一つ一つ丁寧に作ってくれるじゃん」
「……それが仕事ですから」
「うん。そう言うと思った」
 美作さんはちょっと柔らかく笑うと、
「だけど、三島さんがそうやって納品した商品をちゃんと丁寧に扱ってくれること、知っているから、俺たちは安心して作品を三島さんに託すことができるんだ」
 その言葉と、優しい笑みに胸がうたれる。そんな風に、思ってくれていたの?
「最初、三島さんに誘われてこの店にきたときに、商品を大事にしてくれる人だなって思ったんだ。だから、納品させてもらうことにした。本当だよ」
 美作さんの言葉に頷く。この人が、お世辞とかをいう人ではないことは、この二年間でわかっている。
「うん、そうだな。俺にとって作り出したアクセサリー達は、作品なんだ」
「作品?」
 それはそうだと、思うけれども。
「そう。商品じゃない。作品に値段設定したからってすぐに商品になるわけじゃない。作品は完成して置いておかれればそれでいいけど、商品は売れなければ意味がない。その売るための一手間を、作品から商品への変身を、三島さんがやってくれているんだ。本当、他力本願で申し訳ないけど」
 ああ、そんな風に考えたことはなかった。なら、私でも少しは役に立っているんだろうか。
「お店もあるのに無理を言っているのは十分に承知している。多分、これが大家と店子という関係にあることを利用しているんだろうな、っていうのもわかっている」
 美作さんは真面目な顔で私の顔を正面から捉えると、続けた。
「その上でお願いしたい。助けて欲しい」
 ここまで言われて、断ることができるだろうか。ここまで、私に価値を与えてくれたのに、断ることができるだろうか。
「……私でよければ」
 ほんの少し俯いて、そう答えた。