美作さんは、峯岸には黙っていてくれたらしい。
 数日後、
「どう、これ、どう!?」
 と、母親に褒めてもらいたい子どものような顔をして私の家にやってきた峯岸は、いつもどおりだった。
 峯岸が持ってきたのは、看板に使うから、と頼んだ絵だった。
 出来たばかりなのだろう、油絵の匂いがする。
 大きめのキャンバスに描かれているのは、いつもの峯岸の不思議生物たち。いつもどおり、ピンクを基調としている。
「あ、いいじゃん。可愛い」
 いつものピンクだけれども、ちょっとした紫が効いている。
「この紫がいいね」
「でしょでしょ? でもね、ちょっと違うんだなこれが」
 峯岸は言うと、私に廊下にでるよう指示する。素直に廊下にでた私に、
「そこにいてよー」
 と声をかけて、峯岸はどんどん階段の方に進んで行く。私の家は廊下の一番置くにあるから、階段の方に進めば進む程、私との距離は遠くなる。
「どうだ!」
 階段の一番近く、美作さんの家の前で、峯岸が自信満々に絵を掲げた。
「あ……」
 思わず声がこぼれ落ちた。
 確かにいつもと違う。
 遠くで見ると、紫の部分がMIMIMIの文字に浮かび上がって見えた。
「ふふーん、どうだ!」
 偉そうに峯岸が言う。だけれども、今日に限っていえば、そんな態度になるのも納得できる。
「すごい」
 素直にそう言った。
 紫の部分は近くでみたら沢山の不思議生物たちの、体の一部分に過ぎない。猫っぽいのの目の部分とか、ユニコーンの角の部分とか、ペガサスの翼の部分だとか。
 だけれどもそれらが絶妙な位置に配置されて、遠くから見るとMIMIMIの文字に見えるようになっている。
「え、これ峯岸が描いたんだよね?」
「え、何疑ってんの!? どっからどう見てもあたしの絵でしょう!」
「それはわかってるよ」
 もう今更、峯岸の絵を見間違えたりはしない。
「違うよ……、びっくりしたの」
 ほぅっとため息をつきながら言うと、峯岸がにやっと猫みたいに笑った。
「でっしょー。やっとあたしの凄さがわかった?」
 凄いのはだいぶ前から知っていた。
「うん」
 だけど頷いた。だから、頷いた。
「これは、あれだね」
「うん?」
「遠くからも見てください、近づいても見てくださいって言わなくっちゃだめだね、当日に」
「そうねー! せっかくだから両方見て欲しいな」
 峯岸もまた、満足そうに笑った。
「美作さんには見せたの?」
「ううん、まだ。真っ先に三島に見せようと思って!」
 屈託のない笑顔で言われて、心が柔らかくなる。こういうときの峯岸は素直でとっても可愛い。
「そうなんだ、嬉しい」
 だから素直にそう答えた。それに峯岸は一瞬、面喰らったような顔をしてから、ふへへっとだらしなく笑った。
 その顔は、そんなに可愛くないかもしれない。
「美作さんにも見せようよ」
 ほらチャイム押しなよ、と美作さんの家のドアを指差す。
 美作さんの家のドアの真横にいる峯岸は、今気づいたと言わんばかりの表情でドアを見ると、ひょいっと何の躊躇いもなく玄関のチャイムを押した。
 ……用があるときにだって、そのチャイムを押すのに戸惑って、躊躇ってしまう私には、峯岸の、その気負わないようすが羨ましかった。
「はい?」
「あ、居た。でてきてー!」
 適当なお誘いの言葉に、少しの間があって美作さんが出てきた。
「さっきからなぁに、二人して廊下で騒いでんの」
 作業中だったらしい。エプロンをつけての登場だった。
「峯岸さんはともかく、三島さんが騒ぐなんて珍しいね」
「すみません……」
「ちょっと、あたしはともかくってどういうことよ!」
「そういうことだよ」
「むっきー!」
 呆れたように笑う美作さんに、峯岸がいーっと歯を見せる。
「峯岸。いいから見せなよ」
 見ようによってはじゃれあっているとも見えるその姿にうんざりしながら、そう声をかけると、
「はっ」
 峯岸は慌てたようすで、絵を美作さんの方に向けた。
「そうだった、美作と遊んでいる場合じゃなかった。みなさいよ、ほら、これ!」
「あ、看板にする絵?」
 途端に美作さんの顔が綻ぶ。
「いいじゃんいいじゃん。俺、峯岸さんの絵、好きだよ」
 なんでもないように付け足された言葉に、私の胸だけが騒ぐ。わかっていたけど、知っていたけど。私だって、峯岸の絵、好きだけれども。
「それはいいからさ、ちょっとそこで待っててよ!」
 当の峯岸は、そんな言葉に聞く耳を持たず、というか絵のことで頭がいっぱいのようだ。さっき私にして見せたみたいに、美作さんを家の前に立たせると、ぱたぱたと廊下を私がいる方、奥の方へ走ってくる。
 私の家の前、私の隣に立つと、そこで振り返った。
「どうだ!」
 絵を掲げる。
「……おおっ」
 美作さんが感嘆の声を漏らして、ついでに大きく目を見開いた。
「どうよどうよ!」
「いいね! へー、すごいすごい」
「でっしょー! もっと褒めてくれていいのよ!」
 峯岸の横顔は誇らしげだ。
「へー、そっか、そういう方法もあるんだー、すごいなー」
 美作さんも感心したように何度も頷いている。
 峯岸が首をこちらに向けると、可愛らしく笑った。
「楽しみだね! ね、三島!」
 美作さんが少し、顔を強張らせる。楽しみにしていて失敗したことを知っているからだろう。
 だけど私は、だから私は、素直に、思ったままを答えることにした。
「うん、楽しみ」

 けれども、楽しみにばかりしていられなかった。
 準備も滞り無く進み、思ったよりも順調なことを、密かに私が不気味に思っていたころ、その人は現れた。
「いらっしゃいませ」
 ドアの開閉音に、反射的に言葉をかけてから、ドアの方を見る。綺麗に着飾った、上品そうな女性がそこにはいた。同い年か、すこし上に見える。
 Insulo de Triではあまり見ない格好の女性。手作りアクセサリーではなく、高い宝石を上品に身につけていそうなタイプだ。
 彼女はつかつかと迷うことなく、レジにいる私のところにまで来ると、
「貴女が、三島優美子さん?」
「はい、そうですが……?」
 どうやら彼女は、店にではなく私自身に用があるらしい。鋭い視線で睨まれるような気がして、身をすくめながら頷く。
 そうですか、と彼女は頷いてから、
「峯岸幸子です」
 端的に名乗った。
 ……峯岸?
「もしかして、峯岸の」
 と言いかけて、慌てて呼び捨てから軌道修正する。
「梨々香さんのご家族の方ですか?」
「ええ」
 彼女は頷く。じゃあ、最初からそう名乗って欲しい。と思っていると、
「一応は」
 不穏な一言を付け足される。一応?
「一応、母親です」
「……え?」
 思わず変な声がでた。きっちりとした洋服に身を包んだ彼女は、峯岸の母親というには若過ぎる気がした。えっと、だって、峯岸が二十歳でしょ? 十六の時の子どもだとしても、三十六? さすがにそこまで年がいっているとは思えないけど…;。
 と、思っているのが顔にでたのか、彼女は一つ頷いてから、
「後妻です。血のつながりはありません」
 はきはきとした口調でそう答えた。
 ああ、そうなんだ……。
 なんとなく気まずい空気を覚えながらも、空いているテーブルを勧める。
「……あ、それじゃあ、もしかして、伯母と仲がよかったというのは?」
「彼女の実母の方ですね」
「失礼ですが、その方は……?」
「亡くなりました。八年程前ですね」
「……そうなんですか」
 それじゃあ、最初峯岸の話にでてきた、進路を反対する母親というのは実母ではなく、この人の方だったのか。
「貴女の伯母様には、生前彼女が世話になっていたようで感謝しています。母親代わりになっていただいて」
「……はあ」
 なるほど。どうして伯母がそこまでして峯岸を二階に置いていたのかが疑問だったが、亡き友人の娘の身を案じていたからか。別にこの人が悪い人だとは思わないけれども、姉妹程度にしか年が離れていない後妻と一緒に住むのは大変だろう。峯岸、あの性格だし。
「あ、すいません、それで今日は……? 梨々香さんなら、バイトだと思いますけども……」
「知っています。いないことを確認してから来ました」
 つんっとすまして言われる。
「貴女から、彼女に伝えておいてください」
 この人は、頑に峯岸の名前を呼ばない。
 そして、淡々と、彼女は言った。
「貴女のお父様がどうおっしゃるかわかりませんが、私は貴女と一緒に暮らすつもりはありません。お父様に連れ戻されないよう、せいぜい実績を作ってがんばってください、と」