かちかちかちかち。
 お父さんの左手で、力強くリズムを刻むその時計を、小さいころからずっと憧れていた。
「そうだな、楓が高校生になったら、これをプレゼントしよう」
 小さい頃、交わした約束。
 高校生になるのを楽しみにしていた。
 そして今年の三月、私は誕生日を迎える。受験も終わって、晴れて高校生になることが決まった私は、誕生日プレゼントにそれをねだった。
 楽しみにしていた。
 私の左手で、その時計がかちかちかちかちと音をたてることを。
 楽しみにしていたのだ。
 それなのに、
「お父さんのバカ! 無神経! ありえない! はげ!」

私の時計は手巻き式


 誕生日の翌日、がらり、と教室のドアをあけると、
「あ、来た!」
「カエ! おはよう!」
「お誕生日おめでとう!」
 いつも一緒にいる、ザワ、ミミ、アメリがそう祝ってくれた。
「わー! ありがとう!」
 三人のところに駆け寄る。
「昨日日曜だったし、パーティしてもらった? でも、よかったね、卒業式の後じゃなくって」
 おどけて言いながらザワが代表してプレゼントを渡してくれる。
「あけていー?」
「どうぞどうぞ」
 中に入っていたのは、私が欲しがっていたペンケースだった。この前、皆でロフトに行った時に見たんだけど、ちょっと高くて諦めてたやつ。
「わー、嬉しい! ありがとう」
「高校でも使ってねー」
「うん!」
 大事にそれを鞄にしまっていると、
「あれ、時計、してないの?」
 ミミが私の左腕を見て尋ねて来た。
「ほんとだー」
 左手をぐいっとアメリに引かれる。
「お父さんの腕時計もらうって楽しみにしてたじゃん」
「嬉し過ぎておいてきちゃった?」
「違うの!」
 大声がでる。
「うわっ、びっくりした」
「違うの! もう! 本当、あいつありえないの!! 聞いて!!」
 昨日のこと思い出したら、また腹がたってきた。本当、やんなっちゃう!

 卒業式の練習で午前中で終わったので、制服のまま、皆でザワの家になだれ込む。ザワの家は共働きなので、よくたまり場になっている。
「で、どーしたの?」
「あのね! あの時計、お父さんの昔の恋人のだったの!」
 ああ、本当、腹がたつ。
 昨日、時計を渡しながら、こともあろうかお父さんは微笑みながら言ったのだ。曰く、それはお父さんが高校のとき付き合っていた人もので、さらにその前はその人のおばあちゃんからもらったもので、その人が交通事故で死んじゃった時に形見分けとしてもらった大事なもので、だから楓にも大事にして欲しい。
「バッカじゃないの! って思ったよね!」
 渡す? 普通そういうものを娘に、渡す?
「っていうか、そもそも結婚してからも大事に毎日腕につけてるなつーの! きもいわっ!」
「うわー、それはごめん、ちょっとひくわー」
 顔をしかめてザワ。
「でしょー?」
「えー、そう、あたしはいい話だと思うけどな?」
 小首を傾げるのはミミ。
「どこがっ!」
 思わずぐいっと身を乗り出してしまう。
 ちなみに、アメリはお昼代わりに買ってきたお菓子を一人で一心不乱に食べている。この子は、そういう子だ。
「それだけ大事にその人のことを思っていたということでしょう?」
「大事に思い過ぎでしょう!」
 だって、お父さんにはお母さんがいるのに!
「っていうかね、うちのママも持っているの、そういうの」
「そういうの?」
「ママが高校の時、付き合ってた人にもらったっていう、熊のぬいぐるみ。その人なんか、亡くなっちゃったらしくて、それで捨てられなくて今でもうちにあるの」
 うーん、確かに似ている。
「それ、ミミのお父さんはなにか言わないの?」
「パパは、その人のこと忘れられないママもひっくるめて好きだからいいよって、言ったって」
「のろけかよっ!」
 盛大にザワがつっこんだ。
「ミミん家は本当、仲いいねー」
「うん」
 屈託なくミミが頷く。ミミの長くて黒い髪が一緒に揺れた。
「んーでもさー」
 と、アメリがお菓子から顔をあげた。聞いてたのか。
「それって、カエのとは、ジジョーが違わなーい?」
「思った。ミミのママは、それ大事にいつも持ち歩いてるの?」
「まさか。普段はママ達の部屋の本棚の上の方においてあるよ。埃被ってないから、多分、定期的にはらってはいるんだろうけど」
「カエのお父さんは、それ、毎日身につけてるんだよ?」
 ザワの言葉にミミはしばらく悩むように沈黙したあと、
「……うん、違うかも」
 呟いた。
「ミミは、そのぬいぐるみくれるって言ったらどうする?」
「えー、いらなーい。だって重いじゃん。それに、ママ、あれ大事にしてるもん。あたしにあげようなんて、絶対思わないよ」
「そう、それも、私ちょっと不満!」
 百歩譲って亡くなった恋人のものを持っているのはいい。それをなんで娘にあげようと思うわけ? 自分で大事にしてなさいよ!
「あのねー、アタシがジジョーが違うって言ったのはね、そういうことじゃなくてね」
「なに、アメリ」
「パパとママじゃ違うでしょーってこと」
「は?」
「だから、ミミのママがそのぬいぐるみ持っているのは、なんかね、いいなーって思うの。悲恋、って感じで」
「ああ、それはちょっとわかる。ミミのお父さんがそれでもいいよって言ったところとか、なんかドラマみたいだよね」
「そんな、ドラマだなんて」
「……なんでミミちょっと照れてるの?」
「でも、カエのパパのそれは、なんか、キモイ」
 人の家の親に容赦ないな、この子は。
「なんか、ママに、結婚できなかった恋人がいるのは許せるけど、パパはいやだ」
「あー、それわかる!」
「うん、なんか不潔って感じ」
「そうかも……」
 確かに、なんだかすごく気持ち悪い。他の女と付き合っていたお父さんなんて。お母さんならそんなこと、そこまで思わないけど。ちょっとはいやだけど。
「初めて付き合った人と結婚するなんて無理なのはもう、ガキじゃないから知ってるけどさ、それでも前のオンナのことは内緒にしてて欲しいよね」
「うん、わざわざ言わないで欲しい」
「しかも高校生とだよ?」
「それはアメリ、その当時はカエのお父さんも高校生だからね?」
「あ、そっか」
 うーん、なんか話せば話す程、嫌になってきた。
「ねえ、カエのママはこのことどう思ってるの?」
「え?」
「だから、腕時計のこと。結婚する前からそういうものだって知ってたのか、とかさ。それをカエにあげることをどう思っていたのか、とかさ」
「お母さん……」
 そういえば、昨日は腕時計のいわれを聞いたあと怒って部屋にこもったから、お母さんがどんな風に思っていたのか、あの時どんな顔をしていたのか、全然わかんない。
「うーん、聞いてみる」
「うん、そうした方がいいよー」
 帰ったら聞いてみよう。
 とりあえず皆に話聞いてもらえてよかったな。なんかちょっとだけもやもやがすっきりした。
 お父さんのことはより気持ち悪い存在になったけど。
 さてと、私もお菓子食べようかな、思ったら、
「アメリ! 一人で食べ過ぎ!」
 もう殆ど残ってない。
「ほんとだ!」
「えへへ」
「えへへじゃないの!」


 帰宅すると、お母さんは台所で夕飯の準備をしていた。
「おかえりなさい」
「ただいまー」
 そのまま、テーブルにつく。聞いてみようとは思ったけど、どうやって聞いたらいいものか。
「ねー楓」
 お母さんの方から声をかけてきた。
「なに?」
「昨日はごめんね。お父さんが。折角、楓の誕生日だったのに」
 振り返ったお母さんは、呆れたように笑っている。
「お父さん不器用なのよ、許してあげて」
「……ん」
 曖昧に頭を動かす。
「お母さん」
「なぁに」
「お母さんはどう思っているの。お父さんの、時計のこと」
 お母さんは少し悩んでから、完全に体ごとこちらに向き直った。
「ぶっちゃけていいの?」
 お母さんがぶっちゃけとか使うなんて。少し笑う。
「うん、ぶっちゃけて」
「腹がたつ」
 少し笑いながらお母さんは言った。
「だって、普通あり得ないでしょう? 昔の恋人のもの、今でも大事にしているなんて。しかもそれを、娘に渡そうとするなんて。私の、娘に。確かに、そうしたいって、昔から言ってたけど」
「昔から?」
「結婚する前、付き合っていたころにね、腕時計をプレゼントしたの。クリスマスだったか、誕生日だったか忘れたけど。その時に言われたの。僕はこの時計を外せない。外すことがあったから、それは僕が自分の子どもにこれをあげるときだ、って」
 バカみたいでしょう? とお母さんは眉をつりあげる。
「それを聞いて、私がどう思うかとか、考えてないのよ、あの人は」
「その時、怒らなかったの?」
「怒りにくいでしょー、死者を相手にだされたら」
 肩をすくめる。
「そこで怒ったら、私が酷い人みたいじゃない。……そうやって、亡くなった人のことを悼むあの人は、優しいとも思ったしね」
「……確かに」
「でも、お父さんにも、その人にも腹をたてたけど、なんか色々考えてるうちに、まぁいっかって思う日がきたの」
「なんで?」
「だってその人はもう亡くなって、お父さんとは一緒に居られないんだもの。もしかしたらその人がお父さんと結婚するかもしれない未来があったのかもしれないでしょう? なかったかもしれないけど」
「うん」
「だったらまあ、左手ぐらいいっかなって思ったの。結婚するのは私だから。他は全部私のものになるのならば、左手ぐらい、貸してあげるわよ」
 そういって笑ったお母さんは、いつものお母さんとちょっと違っていた。女の人、って感じがして少しドキッとする。
「上位にいるものの強みね」
「……そっか」
 お母さんはお母さんで、色々考えて折り合いをつけたんだ。
「……そうだね、お父さんは私のお父さんだもん」
 その謎の人の旦那さんとかじゃない。ただ、左手が貸出中なだけ。
「だけど楓、それはお母さんの事情よ。あの腕時計を引き継ぐかどうかは、楓が自分で決めなさいね」
「……うん」
 私が頷くと、お母さんはまた料理に戻る。
 私はどうしたらいいのか。
 貸出中の、お父さんの左手。
「……お母さん」
 ふっと思うことがあって、またお母さんに話かける。
「うん?」
「一つ聞きたいんだけど」


「ただいまー」
 いつものように帰って来たお父さん。
「……おかえりなさい」
 階段に腰掛けて待っていた私は、それでも少し気まずくて、小声で声をかけた。
「おー、ただいま」
 お父さんは、昨日のことなんてなかったように笑う。
 今日のお父さんの左手には何もついていない。お父さんは昨日私に腕時計を渡した後、それを居間に置きっぱなしにしていた。
 今は、私の左手で、かちかちかちかちと音をたてている。
「お父さん、これ」
 左手を見せると、お父さんは嬉しそうに笑った。
「つけてくれたんだ」
「うん。……昨日はごめんなさい」
「いや。急にあんな話をしたらびっくりするよな」
 笑うお父さんは、多分、なんで私が怒ったのかとか、イマイチわかっていないと思う。仕様がない。そういう人なのだ。お母さんがいうとおり。
「うん。ハゲって言ってごめんね」
「お父さんはまだ大丈夫だ」
 うん、ぎりぎりだけどね。
「……それでね」
 立ち上がり、お父さんの前に立つと、箱を渡した。
「お父さん、腕時計ないでしょう。だからこれ」
 渡したのは腕時計。少し古いデザインだけど、お父さんにそんなことわかるわけがない。鈍いから。
「おお、ありがとう」
「お母さんからだけどね」
「そうなんだ、ありがとう」
 言いながら、なんの躊躇いもなく、お父さんはそれをつける。左手に。
 満足そうにそれを見る。
「それだけ。私、部屋戻るから」
 言って、返事を待たずに階段をのぼる。
「楓、ありがとう。お誕生日、おめでとう」
 お父さんの声が追ってきた。
 かちかちかちかちと、左腕で音が鳴る。

 鈍いお父さんはやっぱり気づかなかった。
 さっきお父さんに渡した時計は、お母さんが昔お父さんにプレゼントし損ねたやつだ。
 捨てるのも悔しくて、ずっととっていたらしい。
 今、私の左手で音を立てる時計と同じ、手巻き式。巻いたらちゃんと動いたから、すごいな、と思った。
 これで時は動き出した。貸し出されていたお父さんの左手の時は、動き出した。
 もう十分でしょう?
 左手の腕時計を見る。
 お父さんは相変わらず鈍いし、やっぱりなんかむかつくけど、私が腕時計もらえばお母さんにお父さんが全部返ってくるなら安いもんだ。
 そろそろお母さんに返してあげて。お父さんの左手。
「代わりに私が大事にしてあげるからさ」
 かちかちかちかちと、時計は返事した。